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2010年9月26日

娘・妻・母

成瀬巳喜男
東宝ビデオ[DVD]
お勧め指数 □□□□■ (4)

あれ、カラー映画になっている。
カラーだと古い映画の感じが弱まるので、ちょっと気分がのらない。
しかしレンタルできる成瀬作品DVDがもう残っていない。
仕方がない。

内容はホームドラマだった。
いわゆる嫁・姑問題。
それだけでなく核家族化がどのように進行していったのかについて。
戦後の高度経済成長期に指しかかる自分の、都心での暮らし方が変わりはじめた頃のスケッチのような映画といえばいいだろう。
良く言えば社会問題を分かりやすいようにまな板に載せたもの。
悪くいえば渡る世間のようなホームドラマ。

当時の人ならば、家も似たような問題を抱えているという人も結構いただろう。
真剣に考えない問題だったのだろうが、どこにもあるどうにもならない問題といえなくもない。
すでに核家族化が完了した現代から見れば、ふーん、と言えなくもない。
当時の人はこれを見て、考え込んでいたのだろうか。

 

2010年9月19日

めし

成瀬巳喜男
東宝ビデオ
お勧め指数 □□□□□ (5)

タイトルどおり、ご飯を食べようとするシーンが多い。
ちゃぶ台でご飯を食べる習慣、ぼくも昨年までそうしていた。
食卓テーブルもあるが、ちゃぶ台のほうが落ち着く。
だからずっと愛用していた。
原節子がてきぱきと整える食卓には、用途がなんだかわからない家具がある。
冷蔵庫ではない。
一体なんだろうか、あれは。
そんなことを観察しながらも、かなり見入った。

原節子の役は、幸薄い美人奥さん。
戦後直後の世界だから、旦那さんの態度がどういうものが一般的だったのかわからない。
画面から伝わる雰囲気は、現代(といってもぼくの世代くらいまでだが)と変わらない。
家父長制なんかない。
男尊女卑でもない。
そんなに違わないのかもしない、実際のところは。
そういう意味では現代劇と思ってみても違和感はない。
ならば原節子さんが現代劇に登場しても、いかなる問題もないだろう。
戦後って、30年代以降はそんなに変わっていないのかもしれない。
劇中、原節子がインクとペンで手紙を書くシーンがある。
携帯やノートPCの画面をのぞき込む原節子さんを想像することはたやすい(高峰秀子さんの方はちょっと難しい。何故だろうか)。

原作が林芙美子なので、まぁ暗い雰囲気が全編に漂っている。
見ている人は原節子の心情の側にたつだろう。
なにか「面白くない」ものが胸に詰まった奥さんの役、上手に演じている。
実際そういう生活をしているような気分になる。

映画には当時の日本人に向けたメッセージがある。
ちょっとベタな感じもするが、昔はこれで良かったのだろう。

劇中に小林珪樹が登場する。
まじめに働く人で、原節子を間接的にしかる役目でもある。
劇中に登場する人の中でもっとも常識人。
こういう役、似合うなぁ。
寅さん映画でのひろしの役割だ。

そういえば、先週見た映画は小林珪樹が主役だった。
そう思ってWikiを覗いたところ、ビックリした。
9月16日に亡くなったそうでだ。
3日前か。
ニュースには昨日でたようで、何かの因縁を感じる。
先週小林さんの主演映画を見て、今週も見た。
なにか不思議な縁があったようだ。

ツタヤに置いてある白黒の成瀬作品はもうない。
残る2本はカラーである。
成瀬作品の後は誰を攻めるか。
木下か溝口か小津か。
今年一杯つづければ、それなりの日本映画好きになってしまいそうである。

2010年9月12日

女の中にいる他人

成瀬巳喜男
東宝ビデオ[DVD]
お勧め指数 □□□□■ (4)

近所のツタヤで毎週成瀬巳喜男作品を借りている。
どうやらぼくの外に同じように定期的に全部見たおそうとしている人がいるらしく、次に見たいものが借り出し中になっているときが多い。
なんだか仲間意識をもってしまう。
おお、この人は浮雲まで行ったか、とか。
これを借りたときも高峰秀子作品が見当たらず、これはサスペンスだということで気が乗らなかったが借りてみた。

もうひとつだった。
舞台になる時代が「大分こっちがわ」に寄ってきた感があり、こんな風景ならば見た事があるよ、といいたい感じがした。
街の風景や部屋の感じに大分見覚えがある感がでてきた。
なので、昔の映画を観ている気がもうひとつしない。

それと、サスペンスというのもいただけない。
推理小説やミステリーをそれなりに見ているので、その手の技巧はいろいろ頭に入ってしまっている。
トリック的なものは積み重ねで進化していくから、現代人ほどいろいろ知っているようである。
だから、「全部読めちゃう」という問題がある。
伏線を貼っているところがバレバレ感があって、ストーリーはもうひとつだった。

ただし、この映画にはずばぬけていいところがある。
画面の作り方だ。
白黒ならではの光と陰、人の表情。
「この映像はアートだな」というシーンがいくつもあった。
手前の人の顔を陰にし、奥の女性の顔に光をあてるとか。
顔の輪郭をシルエットでだすとか。
そういう画面の作り方に感心してしまうし、見てて飽きない感がある。

能面のようなキレイさと怖さをたたえた表情をする新珠三千代に魅かれる。
高峰秀子好きのぼくからすると大分違う感じなのだが、それでもキレイな人だ。
でも、男性の方がよくわからない。
なんで主役が小林桂樹なのか。
せっかくだからカッコいい人のほうがいいのに。
役者としては一流だし、まじめな人柄であることを一見してわからせる必要があるからというキャスティングなのか。
新珠三千代とは釣り合いが悪いと思うが・・・(失礼だけど)。

この作品は昭和四十一年だそうだ。
なるほど、日本映画は下降しているなとわかった。
これまでみてきた作品よりも明らかによくない。
劇中にもテレビドラマがでていたけど、映画そのものが落ち目に入ったことがよくわかった。
知識ではなく、体感できた。
『乱れる』が作られたのはこの二年前でしかないのに、どうしてなんだろう。
一体何があったのだろう。
どうして、日本映画が下ってきたのだろう。

まだ数本しか見ていないのに、日本映画の盛衰を感じてしまった。
ぼくは30年代一杯までの映画が好きなんだとわかった。

まだ借りられる成瀬映画はあるから、そのあたりを考えながら見ていくと面白いかもしれない。
 

2010年9月 5日

乱れる

成瀬巳喜男
東宝ビデオ[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

加山雄三が出演している。
どんな演技なんだろう。
少し抵抗を憶えながらも高峰秀子作品なので見るよりない。
なので見てみた。
そして最後で感動した。
座っていたソファーからひっくり返ってしまった。
ラストシーンの高峰峰子さんの表情、一生忘れられないかもしれない。
完全に高峰秀子のファンになってしまった。

タイトルの「乱れる」の意味がわからなかった。
なにが乱れるのか。
ストーリーは地方都市の商店街にある酒屋の未亡人の話。
戦争で夫を亡くし、必然的に店の切り盛りを一人でやってきた。
そんな商店街でも時流にのった驚異が出現する。
スーパーマーケットである。
現代でもシャッター商店街という言葉があり、大型スーパーによって寂れ行く街という話は日々のニュースで紹介されている。
この40年わかっていないのかもいれない。
逆に言えば、40年かけてスーパーが完全制覇をなしとげつつあるのかもしれない。

成瀬巳喜男の作品は世界的にはあまり知られていないと本で読んだ。
アマゾンで、OzuやMizoguchiという名前は見ても、Naruseはあまり見かけない。
扱うストーリーに世界性がないことが理由なのだろう。
そう思っていた。
しかし違うようだ。
この「乱れる」のストーリーは世界があるはずだからだ。
ではどこに世界性がないのだろうか。
ぼやぼやと考えながら見た。

数作品しか成瀬巳喜男の映画を観ていないが、そのなかでもこの映画の展開を気に入っている。
どうしてなのか。
言葉では説明できない気分である。

ぼやぼやと考えてみる。
なるほど、そこに世界性がないということの理由があるのかもしれない。

2010年8月29日

山の音

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

高峰秀子さんの映画を借りようとツタヤに行ったのだが、見ていないものは借り出されていた。
残っていた成瀬巳喜男監督の作品を眺め、まぁこれでならばいいかなと手のしたのが山の音だった。
川端康成の小説が原作。
読んだ事はない。
ローマで書店をぶらぶらとしていたとき、須賀敦子によるイタリア語翻訳のペーパーバックが店頭に出ていたのを見かけたことがある。
どうしてなんだろう、日本人旅行者へのサービス?と不思議に思ったが、真相はわからずじまい。
そんなことが頭をよぎった。
原節子の作品も見たことはない。
ちょうどいいので見てみようかと手にした。
正直、高峰峰子の方がよかったのだけどなぁ、という残念な気分もあった。

ストーリーがどうのこうのいう以前に、原節子の凄みが染み入った。
スゴイ、なんだこの人は。
女優さんの演技を見ているだけで、こんな思いになるものなのか。
感情移入というわけでも、同情というわけでもない。
ただただ、見入ってしまう。
こんな女性、いや、こんな女優さん、今はいないだろう。
ぼくは見た事がないもの。
流行りもののドラマや映画には登場してきていないのならば、現代にはいないタイプといっていいだろう。

見終わっても、あーだこーだ議論をするような内容ではない。
原作が川端康成だから。
まぁ、ある種の「絵」のようなお話。
自分とはあまり交差がないだろうものなので、反省したり道徳を読み取ったりという作業はまったく必要がない。
ただ、観賞すればいい。
そうとうタイプのお話である。
あの人はその後どうなったのか?
そんなことを聞いても仕方ないし、想像しても仕方ない。

原節子の演技に感動した。
この作品の評価はとても高い。
ところでローマで見かけた須賀敦子の翻訳した本は、イタリア人に受けたのだろうか。
出版までするくらいだから、少なくとも出版社としては「意味がある」と判断しただろう。
しかし、陽光そそぐイタリアで、日本の冬の光のような話の意味が理解されるのか。

映画だったら理解してもらえるだろうけど。
原節子のあの表情ならば、きっと。
 

2010年8月22日

放浪記

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

放浪記といえば、毎年ニュースで見かける森光子さんのでんぐり返し。
しかし劇の内容は全く知らない。
なぜでんぐり返しをするのか、想像もできない。

高峰秀子さん出演の成瀬映画を見ることをこの夏の課題にしている。
店先でこのDVDを手にしたとき、
「どんなシーンででんぐり返しがあるんだろうか」
という疑問が浮かび、これをみればそれも解決するかもと期待して借りた。
が、その期待は裏切られた。
でんぐり返しのシーンは出てこなかったから。
演劇ではどんなシーンででんぐり返しをするのか想像もできない。
疑問は余計深くなって残った。

林芙美子さんを原作とした成瀬映画を何本か見た。
全部暗いが、絶望の気分では終わらない。
劇としては絶望で終わっているが、それは救われる暗さではあるから。
監督によって結末が変わるわけでもないだろし、高峰秀子さんだから救われるというものでもないはず。
ならば原作がそうなんだろう、多分。

主人公は作家本人。
要するに自伝なのだろう。
登場する高峰秀子さんの様子は、これまでみた映画の高峰秀子さんとは少し感じが違うようで、ちょっと面ッ食らった。
役者の実年齢よりも大分若い自分の人を演じるからだろうか。
時代設定はいつのなのか、いつも気になる。
ミルクホールの給仕として働く姿を見るに、これは戦前の設定なんだろう。
当時の状況を良く知らないが、ミルクホールはカフェというよりキャバレーに近いところなのかもしれない。

そういうところでせっせと働きながら、夜には詩を書いたり小説を書いたりしている。
文字通り蜜柑箱にロウソクだったりして。
本人が「これをやるべきだ」と知っている人の行動は世の東西、時代を問わず同じようだ。
ストーリーとしては、貧乏のどん底からはい上がっていくもの。
成功物語である。
文筆業は、原資が要らないので、その国の成功物語の一つのパターンになっているはず。
言ってしまえばそれだけ。
なぜ、それで面白いのだろうか。

それでも面白いと思ってい見たのだから、何か違うものを読み取ったのかもしれない。
一つは、弱いものが力を得ていくところだろうか。
可哀相な高峰秀子さん演じる娘さんがチャンスを掴んでいく様に、上昇感を味わうことで気分がよくなるのだろうか。
よくわからない。
が、こういう作品は成功した人が現れるために登場するので、尽きる事がないだろう。
ある意味、救われる国であるかどうかのバロメーターなのかもしれない。

ぼくが一番印象に残っているシーンは、高峰秀子さんの歌声。
それだけのためにDVDを買いたいと思っている。
 

2010年8月15日

流れる

成瀬巳喜男
東宝
お勧め指数 □□□□□ (5)

浅草橋、柳橋界隈の風景が描写されている。
今の浅草橋は老舗の人形屋さんと問屋さんがたくさんあるJR駅周辺というと違い、花柳界だった頃の様子である。
浅草橋は実家から近かったが、いつも通り過ぎるだけの場所だったので、映画の中で出てくる場所は同定できない。
が、それでも「あの辺だろうな」と予想はつく。
自分の子供の頃の記憶と映像はリンクしている。
そんな風に映画を見る楽しみもある。

ぼくは花柳界には縁がない。
現在の様子も知らないし、過去のことも推測することもできない。
たまに映画やドラマで見ることがあるが、楽しそうな仕事ではないようだ。
この映画でも、登場人物たちはがんばって生きている。
今でいえば経営もなかなか難しいのだろう。
芸能プロダクションの内部事情なども、大筋変わっていないのかもしれない。

だから筋を追ってもつまらない。
それでも映画を観つづけてしまうのは、映像に魅かれるから。
山田五十鈴に魅かれてしまう。
三味線をぼろんぼろんと弾きながらの歌が魅力的だから。
そういう具体的な理由もあるが、それ以上に全体から醸し出す雰囲気に魅かれる。

こういう女性がいたんだなぁ。

映像では清洲橋近くの料亭でのシーンがあり、この辺にも来たのかなどとうれしくなってしまう。
gooの地図で昭和25年のものがある。
清洲橋の近くには大きなセメント工場があったようで、それは記憶していた。
この映画では、そのセメント工場が「見えた」ので、ビックリして喜んでしまった。
当たり前なことなんだけど、地図にかいてあったことは「本当」なんだ。
こんなささいなことが理由で、この映画と現在の自分とが地続きになったような気がした。
視野が広がるというか、関係する場所が広くなったというか、そういう爽快感。

風景としていいものがある映画なので、手元にDVDを置いておき、気が向いたら見返すくらいのことをしてもいいかもしれない。

2010年8月 8日

稲妻

成瀬巳喜男
角川エンタテインメント
お勧め指数 □□□□□ (5)


いい映画だった。
日本映画だから全体的に暗い感じのまま結末になるんだと思っていたが、ちょっとちがった。

下町の人らしさとは何か。
一言では言えない。
大抵は寅さん的なものということで意見が一致するだろう。
それこそ「お決まりの」典型的なもの。
その描き方に反論はない。
多くの東京の下町の人がそうだったのだろうから。
この映画での登場人物の心情も寅さんと地続きなので理解できる。
と同時に、下町の人が世田谷の人に抱く印象も、この映画の描くような感じと概ねあっている。
だが、現実にはどちらもファンターなんだだろうけど。

昔ぼくが実際見たものの近いものが映像に多くあった。
下町の商店街のお店でのシーン。
店の中から通りを見ると、店よりも外が明るく、舗装されない道を歩く人がいる。
これも寅さん映画でよくみるシーン。
店の中から外をうかがう人の心情までもなんとなく想像できる。
「ちょっと見てくるから、店番してて」といって、高峰秀子が一人残される。
自分が残されたような、こころもとない気分になる。
無音のまま場面が変わる。
こういう何気ないシーンを結構気にいってる。

ぼくが現在生活している街の昔の風景を映像で見ることができる。
それだけで、不思議なことだがワクワクする。
両国橋、国技館と隅田川沿いが映る。
清洲橋の素晴らしい風景。
あるいは銀座中央通り。
交通標識に英語が残っている。
占領下の日本の様子、映画のなかでもあまり見た事がないことに気づく。

この時代の女性の目標は現代において達成されている。
高い教養を身につけ、自活して生きていく。
この映画はこういう女性を描いている。
しかし、現実はそうならない。
自分の理想から大分遠ざかっている下町の人たちの中で暮らしている主人公は、なかなか思い通りには物事がはこばない。
そんなところに、世俗を代表するような男との縁談が持ち上がる。

この映画のどういうところに感動したのだろう。
粗筋をたどるだけなら、なんとなく想像できそうな映画だから。
トリックもミステリーもサスペンスもない。現代に移し替えてドラマにする企画自体が通らないくらい、なにもない日常。
それでも、設定した時代と役者さんとがあうと、素晴らしいなぁと感じる。
なぜなんだろう。
不思議な気分になる。

映画の要素と全体の印象の関係はどうなっているのか。
脚本がスバ抜けているわけではないし、演技が優れているわけでもないし、映像が美しいわけでもないように感じる。
それでも、全体として「いい映画だなぁ」という気分になれる。
個々の要素を足し合わせたものが全体になるわけではないのだな、とあらためて納得する。

自分が生きている時代よりも昔は、「過去」という一つのものとして考えてしまいがちになる。
過去はそれよりも過去から変化してきたのか。
ごく普通の人だって、個々の制約の中で「こうなりたいなぁ」というおぼろげであっても目標があり、それを目標にして生活してきたんだ。
当たり前なことではあるのだが、そう気がついた。

古代ローマなんていう古代のことを知るのはある種のフィクションを楽しむ気持ちがあるのだが、近い過去つまり自分の親が若かった頃の映画をみると、自分の過去が少しだけ引き伸ばされたような感覚をもてる。

芸術を楽しもうなどのような高尚な目的とは無関係に、この時代の映画を見るのは自分の視野が広がるから、入手できるかぎりDVDを見てみよう。

2010年7月25日

浮雲

成瀬巳喜男
東宝ビデオ[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

この映画を観ていたら「うる星やつら」のラムちゃんを思い出してしまった。
自分の頭の悪さが露呈し、なんともみっともないのだが、思い出してしまったものは仕方がない。
なんでこんな男がいいんだろうという人にいい感じの女の人が離れない不思議。
この映画は「大恋愛映画」ということだ。
そうなのかもしれないが、それは本当か?という疑問も残る。
昔の男女の関係はよくわからないが、一般には「硬い」というものだったのではないか?
恋愛結婚ですら珍しいというような風潮だったとか、男女共学などないからデートなどの風習もなかったとか。
しかし、こういう映画で判断するに、実際のところなんか違っているんじゃないか。
現代と変わんないんじゃないのか、あらゆる意味で。

本編では古い東京が映されていてビックリする。
焼け跡の街はセットなんだろうか。
闇市のようなところはセットだろうけど、千駄ケ谷の駅は本物だ。
上記機関車も走っているし、電車も走っている。
親から話を聴いたことや記録映画、古いドラマなどでみる戦後の風景が映っていた。
ちなみに、高峰秀子の回想シーンでの服装が『ローマの休日』でのヘップバーンみたいだった。
ということは、あれは戦中のモードなのだろうか。

こういうものは記録写真よりもずっと勉強になる。
自分の視点からより広い風景を想像できるようになるから。
東京を考えるときに頭に浮かんでくる風景の「時間的奥行き」が広がったようである。

リアリティーというものがあるからだろう。
いわゆる時代劇をずいぶんと見たが、それではまったく江戸の街のリアリティーを感じなかった。
こういう映画をもっとみて、いろんな東京の風景を目にすると、終戦直後の東京くらいまではリアリティーを感じるようになれると思う。

なぜ古い東京に興味を持つのか。
自分が生きている環境を確認したいという衝動だろう。
どういう場所に自分は生まれ、自分は生きてきたのか。
それを確認したい年齢になったのかもしれない。
ぼく同年代の人が見るには、この時代の映画はとてもいい。

ちなみに、ちょっと驚いたことがある。
それは混浴について。
この時代は混浴が普通だったのだろうか。
脱衣所は男女ともに同じで、同じところで服を脱ぎ、同じ風呂に入る。
そういう伊香保温泉でのシーンが何度か映る。
この時代にわざわざ夫婦用とかプライベート用とかいうものはるはずない。
ごく普通に混浴に入っていたのだろうか。

たしか、杉浦日向子さんの本で、江戸時代は混浴だったということ読んだことがある。
その名残はずっと戦後まであったのかもしれない。
ひょっとしたら、GHQの指導で止めたのか。
そう思ってウィキペディアを調べたら、混浴禁止令は江戸時代もでたし、明治政府も出したが、昭和30年代までは地方の温泉に残っていたということである。
この映画は昭和20年代のことである。
ひょっとしたら、混浴にだれもが違和感を感じない最後の風景だったのかもしれない。
しかしなぁ、そんな時代があったんだなぁ。
それもついこの間まで。

日本映画には発見がある、ホントに。
 

2010年7月17日

女が階段を上がる時

成瀬巳喜男
東宝[DVD]
お勧め指数 □□□□□ (5)

 何といえばいいのか、不思議な感覚である。
 そもそも映画をろくにみたことがないので、この映画について良い悪いの評論には興味がなく、ただ印象だけを記録しようにも、感想を上手く表現できないでいる。

 鉄琴?の妙な音楽で始まり、手書きの味がある字幕(出演とかそういうことを表示するものをなんというのか?)がでる。モノクロの映像。

 もしこれがテレビで放送されているところをたまたま見かけても、「これ見ようかな」とはならない。
 そして、こういう白黒の古い映画を喜んで見るのは「おれって映画通」を自負する人か、ぼくの両親以上の年齢の人くらいなものと判断し、ニュースにでもチャンネルを合わせるのが落ちである。第一印象はそういうものだった。

 ところが、そのまま見続けた。
 ツタヤで借りたからということもあるし、今回は古い東京の街を見たいからということもある。とにかく見ようと思ってそのまま見続け、そして最後まで見てしまった。しかも見終わって感動している自分に気づく。

 集中するのは不思議なことで、見えるものと見えないものがはっきりと別れてしまう。
 古い映画で気になるところはモノクロだということだが、途中で映画が白黒の世界であることを「キレイさっぱり」と忘れてしまった。白黒の画像にリアリティを感じるはずはないと信じていたが、そんなことは「どうでもいい」くらいに問題ではない。全く気にならない。そういう自分のクセを再発見した。

 自分では気づかなくても、映画を見るとき目的を持っているようだ。
 お金を払って映画を見るわけだし、数多くある映画から選んだものにはそれなりの期待があるはず。この映画に何を期待し、何を吸収しようとしているのか、無意識であっても満足感を左右する大切なことである。それさえ満足できていれば、白黒だなんてのはどうでもいいことなのだ。

 映画を見ているときに自分の意識は何を追っているのか。
 僕の場合は声だったり、顔だったりと、そういうものだろう。だから白黒に注意が向かなかった。もちろん、夜の銀座という舞台設定だから白黒であることにあまり気にならないのかもしれない。


 戦後の東京の風景を見たい。
 これがぼくの目的だった。映画のワンシーンで千住の「おばけ煙突」が見れたから、その目的は達成された。それはそれで満足した。しかしそれだけでなく、なんだか予想しなかったスゴイものを見てしまったようである。発見とでもいうべきことに気づた。

 昔に対する違和感のなさである。
 自分の両親よりも上の世代の役者さん、文物や風景あるいは社会を見たことに、不思議と違和感がなかった。むしろその「違和感のなさ」に「違和感」を感じた。

 古いテレビ・ドラマなどとても見れたものではないのだろうという思い込みがあった。
 自分の生まれる前の古い時代の人がもつ感覚に感動するわけない。そう論理的に思っていた。だから、この映画のあまりにも「まともさ」に驚いてしまい、それどころが現代でもこんな映画あるだろうかと、「倍」驚いたわけである。

 なるほど、人は現在の自分を中心に過去を評価しているのである。
 なんどか読んだ子とのある言葉の意味をこれで理解できた気がする。現在は過去よりも優れているはずだ、昔の人よりも優れているはずだと根拠なく思い込んでいる。そして、自分がいる時代のものはなんでも過去のものよりはいいだろうという思い込んでいる。その矛先は科学や技術だけでなく、映像や音楽芸術、スポーツにまで広がっている。

 自分の知らないことに対して、もっと真摯な態度をとらんといかんなぁ。