存亡の条件
|
山本七平 ある民族が勃興し、衰退し、滅亡する。人類史では繰り返し起きる当たり前の現象である。この現象をユダヤの歴史をもとに、日本の戦前戦中の社会の動きを考察したのが本書である。文明衰亡の解説書。 太平洋戦争へ突入する前の日本の指導者について「悪口」を書いてあるわけではない。物理化学の現象を解説するように、集団心理のダイナミクスを解説している。非合理的な特徴をもつ人間の集団を合理的であろうとすると組織が崩壊していまうのだが、その解説を歴史的な例を用いて説明している。さらに、人が信仰心をもつ契機とその一つの予想される結果についても書いてある。講談社学術文庫だけあって「通勤電車」で読むには苦労する文章である。読者対象そうのレベルが高く設定しるため気楽に読めないが、その分読みごたえがある。 |
本書の結論ではないが、次のような一節が痛く気に入ったので引用する。タイトルがおもしろい。「他力本願(ではどうしろというのか)からの脱却」。なるほど、そうルビをふるのか!!
「では、どうしろと言うのか。」 いうまでもないが、この言葉は全く無意味な言葉であり、それは「私は人間ではなく奴隷である」と宣言しているに等しいのである。といえば、「『どうしろ』といわれたからといって、それに従うわけではない。従うか従わないかの選択の自由は自分にある、したがって、『どうしろと言うのか』と言ったところで、それは奴隷であることにはならない」という反論があるが、実は、これが成り立たないのである。というのは、奴隷にも隷属の自由と反逆の自由はある。したがって、反逆不服従の自由があるという主張は、その人が、自らは奴隷でだと明確に宣言したにすぎないのである。いうまでもなく、奴隷とは、売り渡されて前提を確定され、それによって自らの指向も行動も拘束されている存在である。したがって、明治以来の長い「前提を絶対化」する行き方は、いつしか「では、どうしろと言うのか」という質問がでることを、だれにも不思議に思わない奴隷の世界をつくってしまった。おそらくわれわれにとって現在必要なことの第一は「では、どうしろと言うのか」という世界から、まず脱却することである。それにとどまっている限り、前述の思索も探索も一切あり得ない。
こういうことをずばっと記述する。山本七平はどういう人だったのだろうか、と実に興味をもってしまう。
ある事実を指摘する。すると、指摘された人はこう言うだろう。「対案を出せ」。この論理は実は奴隷の理論なのではないか。事実を指摘され、それを事実だと受け入れるのならば、「なるほど、ではこうしたらどうだろうか」と提案する行動を自分から起こすのだろうか。「対案を指摘せよ」というのは「黙れ」と同じ意味なのである。なぜならば、指摘する人間は指摘しているのだって、その瞬間に回答を持っているわけではない。瞬間的にすばらしい対案が思いつかない状況が普通であろう。とすれば、指摘ができないということになる。つまり、「黙れ」ということだ。
こうして考えると、サラリーマンだけでなく、研究者の世界も奴隷世界ということになる。これが現実なのか。