人間の集団における人望の研究
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山本七平 人望がないと日本では成功しないことになっている。では、人望とはなにか? 人望について日本での意味することについて説明する。そして、論語と旧約聖書において、「人望」と同様の意義の概念がないかを探ってみる。人望といっても、ビジネス本にある「リーダー」のことではない。一言で言えば「中庸」な態度をとれる人のことである。人が社会を形成し、その中で気持ち良く生活するための方法が時代や地域によって「かわるわけない」ならば、他の国にも他の時代でも同じ単語があるはず。論語と旧約聖書のなかの「教え」をよく読めば、人望と同じ意義のタームがある。見た目上同じものに収斂している。それは、魚のひれと鯨のひれは生物学的に言えば全く別の由来のものであるのに、水の中で泳ぐという環境に長くさらされていくうちに「同じような形、同じような機能」になってしまったのと同じ話し。 |
「近思録」は論語において、「ベン・シラの教え」は旧約聖書においての「道徳」「格言」の書である。儒教圏にあった日本は「近思録」が道徳を教える基準となる本であったようだ。一方、同様の役割をはたしたのは歴史的に見れば「ベン・シラの教え」となるらしい。両者ともに「目的」があり、そのための「方法論」の提示がなされている。生活のための知恵というよりも、幼児期から子供になるまでの「論理処理能力が無い」期間の人間に、体で教えるための基準である。これを教わらないで成人になってしまった人は、もう道徳をおしえることはできないので、唯憎むべき対象にしかならないとある。なるほど、そうかもしれない。
私は道徳という教育をうけたことがあるような気がしない。だから、道徳が身に付いていないのかもしれない。身に付いているものも、必要以上に長い時間がかかっているかもしれない。いずれにせよ、効率的ではなかった。生きていられる時間は限られているので、まったくもって無駄なことだったと思うが、しかし私にはどうしようもなかった。
中庸といっても理解が難しいわけではない。感情という人間の動物的な「反応」を行動に結びつけなければ良いだけだ。これは私の理解である。世の東西と問わず、結局人間の「動物的なことろ」を以下に制御するか、文脈(置かれた知識、場所、状況)の全体を把握しつつ、前頭葉を駆使した態度をとれるのか。行ってみれば、それができるひとが人望があることになる。簡単だが、なかなかできないだろう。仏教で行く悟りそのもののような気もする。どうすれば、きもちよくいきられるのか?という疑問についてはすでに答が出ているのだ。だだ、実行するのが難しいだけなんだなぁ。いくら歴史が積み重なって、知識が増えても、人間はまっさらな状態で生まれてくるのでいつまでたっても、人類がこの能力を身に付けることはできないのだろう。ここ4万年はそうだった。次の進化した人類に期待するよりない。