失われた福音書
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バートン・マック イエス「おまえたちは、私を誰と言うのか」 ということが福音書にあるが、現在の研究の結果では次のようになるとのこと。 マック「あなたは神の子でもキリストでもなく、最初、犬儒派の哲学者のイメージで捉えられた、ヘレニズムの色合いが濃いナザレという土地出身の男です」 |
なぜ、西洋社会の人が1000年以上も聖書を「真実」と認めてきたのか。私はこれまでずっと興味を持ってきた。奇跡・復活、なぜそんなことを? それを真実と受け入れる一方で、高度な科学・技術といった文明を引っ張ってきた西洋人の頭の中はどうなっているのか? そもそも、聖書って、だれが考えたのか? 私の知りたいことであった。この本を今まで探していたのかもしれない。 この本の内容は、それらに直接応えてくれるわけではないが、すくなくとも「そもそも新訳聖書は何を目的として、どのように成立し、どう変遷してきたのか」のうち最古層について教えてくれた。そうか、マルコがやりやがったのか!
ヘレニズムの色濃き街にいた犬儒派に近い哲学を辛抱する男がいた。犬儒派は「実践」を重んじる人たち。理解だけでなく、行動することを呼びかけていた。その人の言葉が「Q1」という語録となって残った。
その語録Q1は系統だったものではなかったが、ユダヤの預言者の言葉と整合をとる部分が加わりQ2となり、ユダヤ戦争後のエルサレム陥落の影響をうけてQ3という語録になった。
そして、それをマルコが整理し、洗礼、ユダヤ当局者との衝突、陰謀、教え、エルサレムへの行進、最後の晩餐、裁判、ユダヤ人の王としての十字架、復活といった「プロット」を考え、Q3という語録を物語に組み込んだ。
その福音書をもとにマタイ、ルカが別バーションの福音書を書いた。
分かってしまえばなんでもない。オリジナルは一体なんだったけか?となるほど変貌していく「言葉」はよくある。言葉も生命と同じように環境に合わせて進化したものが生き残る。仏教も同じようなものだ。
しかし、一蹴の小説というか神話に対して、権威というか信ぴょう性というか、真実味を増すためにユダヤの歴史書とリンクさせるアイディアは「天才」的である。これが2000年持たせるきっかけの一つであろう。ある意味、勉強になった。