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キリストの勝利

塩野七生
新潮社: 2600円
お勧め指数: □□□□□ (5)

 冒頭の「読者へ」が著者の内心を良く物語っている。というより、この本を書いているときの気持ちそのもの。一人廃虚にただ済み、この別邸に住んでいた人に思いをはせている。


もしも彼が生きた時代が前一世紀であったら、ユリウス・カエサルに従ってルビコンを渡っていたかもしれない。それが後一世紀ならば、初代皇帝アウグストゥスの秘書官の一人にでもなって、諸制度の抜本的な改革とその定着に、田園のヴィラ生活など愉しむ暇もないほどに忙しい日々を送っていたであろうか。もしも彼が生きた時代が二世紀であったならば、ハドリアヌス帝に随行して帝国の辺境をくまなく観察してまわり、広大なローマ帝国の安全保障と統治システムの再検討に、壮年の男のエネルギーを使い果たしていたかもしれないのだった。だが、実際に生きているのは、ローマはローマでも、四世紀のローマ帝国なのである。

 生まれた瞬間に「有利・不利」「幸・不幸」は決っている。時間、場所、家族という外敵条件、および、身体や性格という内的条件。一生を左右する決定的な因子が他人と違っている。だから、平等などという発想は「おそろしく高級」なもの。山本七平ならば「満腹ならではの発想」というだろう。

 時代の転換期に生きることになってしまった人でも、選択の自由ならばある。
 流れに乗るか
 流れに逆らうか
 流れから身を引くか

 ものを考える事ができる人は、本心からは宗教に染まらないのではないか。哲学の徒となったというユリアヌスを見てそう思った。ただし、「哲学」という学問分野があるのではなく、自分で考えるという技術を獲得したという意味でそう考える。自分で考えれば、考えた結果に自信を持てる。そして、その考えの結果をもとに行動した結果が失敗だったとしても、さらに考えることができ、行動した事実からLessons Learnedを得られる。ユリアヌスの軍事的な結果の推移は、まさにそのように進んでいるように本書からは読み取れた。

 時間が過去から未来に流れているはずなのに、ローマ人の生活は「悪くなる一方」のように見える。進化とは、文明には常に当てはまるものではないと実感できる。不思議なのは、なぜ時間発展の方向と文化水準発展の方向とが常に一致することがないのだろうか。ひょっとしたら、「因果律が成立世界というのはおとぎ話なのである」ということを意味している様な気がする。こんなところで因果律が破綻していることの影響をかいま見ているのではないか。なぜか、そんな感想を持っている。

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