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IT時代の社会のスピード 「超」整理日誌5

野口悠紀雄
ダイヤモンド社: 1600円
お勧め指数: □□□■■ (3)

 連載100回を迎えるというタイトルのエッセイにつぎのようなことが書かれている。

” また、書き始めてから思いつく事項もある。仕事にとりかかっていれば、食事中でも出勤途中でも、無意識のうちに考えが進む。寝ているときでさえそうである(朝、目がさめたときに、アイディアを思いつくことも多い)。このような「熟成期間」を作るためには、少しでも早く仕事にとりかかるほうがよい。”

 これは本当にそうである。私もそういうことがよくある。今朝も朝起きたときに考えていたことは、昨日一に考えていたことの続きであった。「考えよう」と意識しなくても、考えちゃっているところが人にはあるようだ。
 また、やり始めるとあたらに思いつくというのも本当である。思いつくときは、文章をタイプしながらであっても、一気に思いつく。映画のように筋が見えるのではない。背中がむずむずする、というような「感触」に近い。一種のクオリアなのだろう。

 小説や映画の脚本は、初めに誰かが考えたものである。観賞していくに従って生み出されているわけではない。では、作者はどうなんだろうか? 時間順に考えていくのだろうか。それとも、空から地上をみるように、過去と未来とを一度に見るような「視点」からストーリーを組み立ててしまうのだろうか? 私はそのようなものを作成したことがないのでわからない。

 有名な画家の「素描」は興味深い。考えている途中がみえるから。ダ・ビンチも対策の部分をスケッチという形で残している。有名な「最後の晩餐」の登場人物の素描はウインザー城図書館に結構残っている。ピカソの絵も、X線で覗くと途中で上塗りした絵が見えてくる。やっているうちに変わっていくのだ。最初から完成していたわけではない。
 一方で、彫刻はそうはいかない。あれは、途中変更は不可能だ。運慶快慶の阿吽やミケランジェロのダビデ象は頭の中にあったものがでてきているはずだ。そう考えると、やり始める前から名作があったものと、なかったものがあるようだ。

 野口さんのエッセイはつねにネタ帖をもとに書いているそうだ。しかし、書いている途中で話しが変わってしまうこともあるとのこと。それが普通なのかな。
 では、私はどうするのか。まず書き出している。しりきれトンボになることも多い。それでも、書いていることで、他人の文章を見るときの「注目点」に気付くようになったのだ。素人が読書メモをつけるのも、まんざら意味がないことではない。


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