構造主義科学論の冒険
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池田清彦 科学とは、変なるものを不変なるものと同じだと言い当てる行為なのだ。そして、現実に存在することはすべて「変なる」ものであり、不変なるものは言葉がさす内容でしかない。言葉の指し示す内容は時間を持っていないのだ。そういう主張の本である。 科学は真理を追究する。そう思っている人は宗教者である。真理などない、という議論をするのではなく、言葉で表現する科学には、真理を追究する能力などありえず、単に、言葉で表現された目で見ないものと現実が同じであると言いたいだけなのだ。この発想は、ある一定期間以上科学者のやっていることを見ていると分かる。確かにそうだ。そしてそれは、科学に限らないのだと分かる。 目の前の現象を決して記述することはできない。その発想はびっくりするのだが、ソシュールという人の言語論を聞くにつれ、「そうだ」と分かる。もう、目からうろこである。言葉の指し示す内容(シニフィエという)は、私流に理解するならば「クオリア」の一種であるようだ。もっといえば、「それだ」と指し示しているクオリアなのだろう、と思う。 構造主義は「知能」を考えるときにも使えるような気がする。知識の表記の問題が、なぜ簡単にできないのだろうか、という問題である。いろいろな発想につながるとても良い本を読んだと思う。 |