<不良>のための文章術
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永江 朗 普通に高校・大学を卒業した人が文章を書くと、なぜつまらない、もしくは恥ずかして我慢しがたいものができ上がるのだろうか。書き言葉と話し言葉は違うとはいえ、なぜ新聞雑誌の読者投稿欄やブログの文章は素人っぽいのだろうか。 それはたぶん、表現方法が未熟だからだ。てにをはをはじめ、主語述語、修飾語被修飾語の関係や言葉のリズムについて素人の人は訓練を受けていないからなのだろう。そう、これまで思ってきた。確かに才能の違いがあることはだれだって分かる。訓練のあるなしで絵の上手下手ははっきりと異なるし、楽器などは旋律どころか音さえ出せないから。そうはいっても、言葉は毎日起きている間はずっと使うものなのだから、プロとアマでの違いはもっと狭くてもよさそうなものだ。 この本には、なぜ素人さんの文章がダメなのかを教えてくれる。素人が下手くそな最大の理由は、文章を「自己表現の道具」として使っているからというのだ。自分以外の物事を対象としているはずが、実際のところは自己表現のための文章になっている。つまり、「自分はこう感じた、こんな行動をした、こんな自分はめずらしいだろう」というものになっている。そんな事例を挙げて、どうすればおカネと交換できる文章になるのか、そのステップを見せてくれている。 結局のところ何がいいたのか。それが「自分」についてなら自己表現。自分についてではなくとも「どこかで聞いたことある、知っている」ようなことならば、わざわざ新たに書く必要はない。そんな判断はむずかしくない。その文章をおカネを払って読むかどうか、その文章が掲載される雑誌や新聞を買うかどうかで判断すればよい。大抵は、知りもしない人のことなどどうでもいいことなのだ。なるほど。流れるような文章を書く必要も、美しい表現も普通の人にとって大切なことではない。ないよりマシだという程度なのだ。それより、何について書くか、そして実際何について書かれているか。 では、なぜ自分の書いた文章の悪いところに気がつかないのだろうか。それは自己表現を目的とした文章を読む機会がほとんどないことが理由だろう。新聞雑誌など社会で流通しているのはプロの文章は情報伝達やエンターテイメントを目的としたものである。素人の文章など、そうとうな事がないぎり読む機会はない。だから、いざ自分で文章を書いてもそれがダメな例と比較できないから、自己表現もまた他人が読むに絶えるものだと勘違いしてしまうのだろう。 書かれた文章は他人の頭で「考えるステップ」を定義したものだろう。読む行為はすなわち考えるという行為である。著者の思考プロセスが読者の頭中で「再生」されるのだ。主観的なものは嫌われる理由は頭の中を乗っ取られるから、ということなのだと思う。人様に読まれる文章を書きたいならば、文章読本よりも何について実際書いているのかを確認するクセだろう。手っ取り早い方法が「客観」ということで、なんてことはない普通のエッセイの書きかたの正当性にたどり着いてしまった。 |