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フューチャリスト宣言

梅田望夫+茂木健一郎
ちくま新書 700円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 梅田望夫と茂木健一郎の対談。どちらの話が優勢か。クオリアになるのかネットになるのか。どちらの話に力が入るのだろう。結果はインターネットの方であった。ブログやネットの可能性を両者は信じているし、実際そうなんだと思う。いつものは、このような手放しの賛歌には気分がよくなっていたのだが、今回は気になる事もある。

茂木 ネットの上での新しいライフスタイルという意味では、中途半端なオタクもダメですよね。梅田さんがよくかかれているように、朝から晩まで大好きなプログラミングをやっていたいと心から思っている人、そういうギークやナードは、僕は好きなんだけど。でも、中途半端なものに対してはものすごく怒りを覚える。
梅田 中途半端だとサバイブできない時代になってくると思いますよ。というのは、ギークやナードでもギーク・オブ・ギークみたいなものでないと、今後はどんどん凡庸な存在になっていくというコモディティ化の問題が常におきます。

 要するに極端になれ、でないと存在の意味はない。そう読めてしまう。いままではそうだよな、と思っていた。でも今は、本当にそうなのかと疑問に思う。中途半端に「好き」ということが許されないのだろうか。なぜ、飯を食べるよりも好きにならないといけないのだろうか。それでは、生き残れない。つまり、そんな人の価値はない、茂木健一郎は死んでしまえと主張している。

 しかし、社会の構成要因である大多数の人は普通の人だし、その人たちは時代を変えるようなことをしない。それなりに夢をもって、自分の置かれた状況と折り合いをつけながらちょっとでも楽しい事をしようとしている。この二人にあっては、普通の人はどうでもよい存在なのだから、何もするなといっている。
 そんなフューチャなんて要らない。

 以前は二人とももうちょっと常人の感覚を持っていたのだが、彼ら自身が「技術」に取り込まれている。本人は自分の意思でやっているのかもしれないけど、社会の人のために主張しているのではない。自己目的化の要素になっている。

 いやなことを無理にやっていても、脳は絶対に変わらない。逆に言うと、ドーパミンの上流に何を持ってくるかに関しては、ものすごく自由度が与えられているんですよ。そう考えると、人生が突然楽しくなってこない? 普通は、「ああ、俺いま学生時代で自由に遊んでいくのに、社会にでたら仕事しなくちゃいけないのか。土日以外はずっと仕事か、なんだかいやだな、灰色だな」なんて思っていたりするじゃない。そうでなくて、灰色であるはずの月曜から金曜までの時間の流れがすべて「蜜の味」になるとしたら。そういう素晴らしいことが可能で、逆に、そういう人しか、本当の意味でのプロフェッショナルになれいないんですよ。

 確かにその通り。しかし、これまでもほんの一握りの人しか社会を変えてこなかったし、それしかできなかったという歴史がある。茂木健一郎のいう通りにほんの一握りのプロフェッショナルで社会全体が支えられるのか、できたとしても支えられる側の人が生きていけなければ、そもそもそんなものはどうでもいいような気がする。

 自分の言っていることが極端であればあるほど、自己陶酔に落ちる。そこには現実感はなく、ただあるパラメータを極限にふっていくときの高揚感しかない。著者の2人ほどの人でも、そういう罠にかかる。これまでの人類の歴史は、良くなっていく途中におかしくなる前兆が紛れ込んでいた。なんか、危うい気がする。

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