人生に意味はない。意味のない人生がさも意味があるかのような発想で生きているとつまんないことになる。そもそも「存在しないもの」を「それが得られなかったから」という理由で悲しい気持ちになり、そのまま死んでいくのは全くばかげた事ではないか。そういう発想をこのエッセイで諭してくれる。著者は70を越えているが、文章には「全く」説教臭いところがない。この文章は年代を感じさせない。この人には「自分はスゴイ」ということを人々に知らせようという意図がまったくないので、実にさわやかな文章と論旨になっている。自分もじいさんになったらこうなりたいものだ。そういう印象をこの本から受ける。著者は仏教の学者ということだが、ところどころで聖書が引用されているので宗教学者なのだろう。著作もすでに400冊を越えてるとか。仏教を会得した人は、なんとなくだが、あらゆるものやことに対する執着が薄い。だからだろう、その人の話を聞けばすんなり受け入れられる。老人とはかくありたいものだ。
書名にある「狂い」とは、世間の基準からみて「狂っている」という意味である。著者によれば、そもそも世間であたりまえだと思われている基準そものが「狂っている」のであって、その基準に照して「狂っている」のならば、正常にもどる「かも」しれないという。戦前の教育をちょっと見てみると、国のために人が存在していると規定していることが見て取れる。あの時代は狂っていた、と現代の人は判断するかもしれない。しかし戦前では「全く正しい正常なこと」だった。こう考えれば、、現在の世間で「当たり前」なこともそのうちひっくり返るだろう。そこで著者は世間の基準から離れるために、世間の基準を「見下げて」しえと言っている。それが「狂う」ということだ。
世界はすべてお芝居だ。
男と女、とりどりに、すべて役者にすぎるのだ。
登場してみたり、退場してみたり。
とシェークスピアの一説をひいた説明がる。役者として人は生きている。しかし、その配役に意味はない。ただその役が必要なのだ。いろいろな役があるが、ムダな人は存在しないのだ。そう主張している。非運ばだけの人生も役柄の一つ。どうせ一度の人生だし、それに意味がるわけではないのだから、その役柄をPLAYする(遊ぶ、演じる)としょうではないか。実に爽快な諦観に私はしびれた。
人生に意味がないと主張に頷く一方で、『それでも人生にイエスと言う
』というV.フランクルの主張も捨てがたい。どっちが正しいという訳ではないが、両方の本に感動するところがある。ある主張を理解すると、それと反対の主張も同時に理解できる気がする。表面的な反発心からではなく、その主張が形成される過程に思いをはせる事が出来るから。
キリスト教は終末に天秤にのらないといけないので、無意味な人生を適当に過ごすこともできない。彼らは大変なのだ。仏教はあるところまでいくと気楽になる。それは多分自意識が薄くなるからだろう。自分のことばかり考えているとどうにも自分の人生には特殊な意味があるような感じがするのかもしれない。そんなことより、どんな状態でもその役割を演じるだけと考えたほうがさわやかな気分でいられると思う。
この本、とても気に入ってしまった。