評論エッセイ集です。まぁ、軽い感じで、読者も普通の人を対象としている。だから、説明は具体的である。例えば、今の日本ついてのくだりで次のような説明をしている。
明治が起業記で、昭和のはじめに世間知らずのまま夜郎自大的に事業を拡張、中年で倒産して路頭に迷い、一念発起でニッチビジネスで再起を果たし。いつもまにやら大金持ち。それを無意味に蕩尽し果てて、無一文の晩年、というのが近代日本の「人生」である。
笑ってしまう。もちろん、エッセイだからいろんなテーマがあり、そんなかで若い頃の気付きのような場面にも今の私がいたく共感するようなものもあった。
というのも、レアルポリティークの場面では私は結局「誰かの尻」についていくことしかできないし、「誰かの尻」についていって、何らかの政治的成果を勝ち得たとしても、それは結局「私のもの」ではないからだ。
私は「私の政治」というものー私以外の誰によっても構想しえず、私がいなければ決して実現できず、私が完全なる熱狂をもってそのために死ぬことができるような政治行動をーがありうるかどうかをしりかたかったのである。
結局、全ての人にあるわけではないのだけど、一度はやってみたいという気持ちはある。
でも、この当時興味をもっていたのは教育の話で、学級崩壊のダイナミクスについても、別の本で紹介していた「消費者」としての子供は学習することができないという話を別の角度から説明している。
しかし、小学生の段階で「ものを習う」ことを放棄し、「ものを習う」仕方そのものを身に付けずに大きくなってしまった子供は、長じたのちも「自分が知らない情報、自分が習熟していない技術」をうまく習得することができない。対話的、双方向コミュニケーションの仕方が分からないからである。
彼らは長い時間人の話を注意深く聞くことができない。人にものを教わるときの適切な儀礼(表面上の恭順さの演技)ができない。なによりも、教える相手に「自分が何を理解していないか」を理解させることができない。この子どもたちが「学級崩壊」の主人公たちである。
要するに、彼らは「自分がしらないこと、自分に出来ないこと」をどうやって知ったり、できたりするようになるのかの「みちすじ」が分からないのである。
だから彼らには「自分がすでにしっていること、自分がすでにできること」を量的に増大させる道しか残されていない。
小学校の学級崩壊だけでなく、大学で勉強しない学生や、意味不明な若い社員にも全部に共通することである。かれは、学習する能力が本質的にない。ということは、そもそも教えることはムダなのだ。
では、どういうものが大人なのか。それを内田さんは「夏目漱石の小説」という切り口から紹介してくれている。どういう人が師匠になるのか、大人になるとはどういう意味か。明治期にどうしていいかわからない若者に対するメッセージとして漱石は小説を書いた。そういう話である。
小説の起源の一端を知った気がした。内田さんの本が何故面白いのか。それは、ものごとの「起源」を真摯に問い、それを考察してくれるからであろう。結構忍耐ずよい「哲学能力」がないとなかなかたどりつかないものだ。そういうものを読める自分は幸せであるが、一方でそれでは自分の哲学にならないとも思ったりする。最後は自分で考えないとだめだ。この人の方法をつかって、自分の身時かなことについて考えてみたい。そう、思った。