先生は、偉い。以上。
そういう突き放したようなタイトルで、年寄りが「我を崇めよ」的な本なのかと思わせるが、内田さんの本なのだからそんな無いような本なはずはない。養老孟司さんの著書で紹介されていたので買ってみた。
読後の感想。なるほど、「先生は偉い」のだ。偉いから先生になったのではなく、単に先生は偉いのだ。知識を消費財と考え、それを「食べ」て自分のものにするのが学習で、知識を分配してくれる人が先生である。そういう理解をしている人がほとんどだけど、それが完全な誤りだったのだ。
振り返ってみると、小学校中学校時代は「先生は先生」という感覚しかなかったが、高校生、予備校あたりか「知識の消費者」という視点を自分は持つようになった。とくに、受験が「テクニック」を売るところであり、予備校というところがそれを高額で販売しているという現実に接してしまったからそうおもうようになったのかもしれない。受験は、学習する意味を無にするのか。
学習とは結局、自分で自分を変える(変わっていく)過程なのだ。知識を売り買いするアナロジーで理解してはいけない。考えてみれば、分配されたものなど結局「忘れてしまう」のだ。
学習は自分で「問い」を発することで起動される行為にすぎない。とすれば、問いの発生は学習者が自ら行うよりない。先生が教えることなどできない。問いを発しないのであれば、それはそれで仕方がないのだ。
自分で問いを発するきっかけとして「先生」が必要になる。その存在は最初から「先生」であればいいのだ。だから、先生は偉いのだ。そういう存在を持てれば、学習はスタートする。
これで学生と接するときの態度で迷うことはなくなった。