論文捏造
この本は2つの意味で記憶に残った。一つは、本書の内容である「データを捏造した科学論文」がネーチャー、サイエンスにバンバン掲載されていたので、当初疑いを持つ人がほとんどいなかったとこと。もうひとつは、著者の感心は「どうしてそういうことがおきたのか」よりも「どうしても誰も責任をとらないのか」ということのほうが重要と思っているということである。まさに、現在のマスコミの行動癖を見ているようで、どうしもようない不快感と猜疑心をマスコミに対して持つようになった。 超電導物質を研究していたシェーンという研究者がスゴイ高温超電導物質を発見した。その方法は勘弁して、物質組成もよく、今後も超電導状態を達成する温度がぐんぐんと上がりそうな気配をもっていた。当然、その年にはセンセーションを起こした。 それはすごい。スゴイ以上に、「それは、本当か」と言いたくなる結果である。普通の人ならそう思うだろうが、シェーンの論文にはその世界で非常に実積のある研究者が共著になっていたため、レフリーも学会も「信じてしまった」のだ。 なぜ、そんな捏造がまかり通ったのかは、メカニズム的にはたいしたことはない。今一つのセンセーショナルな結果は「疑われる」が、度を超えて、しかも絶え間なく結果がでてくれば、「だれも疑わなくなる」という心理が科学界にある。なるほど、そういうものか。勉強になった。 しかし、この本の著者はそちらに感心はないのだ。実は「一体誰が責任をとってくれるのだ」ということ。ワイドショー記者から政治記者まで、マスコミ全体の「信念」のようだ。誰が責任をとるのか探しをずっと続けている。この記者は、研究者本人、共著者、学会、論文を掲載した学会誌、捏造をゆるした研究所、果ては博士課程をとった大学にまで、その責任を押し付けようとしている。まったく、アホである。 科学はその内部に反証可能性をもっている。別の人がやっても同じ結果になる。全く同じ結果がでないならば、それは「却下」される。一時的には生き残っても、数十年というスケールでは捨てられるのだ。だって、誰もその先にいけないのだから。だから、どんなにこの科学者がデータを捏造し、その結果よい思いをしたとしても、結果的にはなくなる。人の判断でどうにでもなる裁判とは次元が異なるものであって、誰が責任だなんてことは科学自体には「どうでもいいはなし」といっていもいい。 記者が本を書くと、こんなものばかりになるのかもしれない。今度は著者経歴をみてから本を買うほうがよい。 しかし、こんなにアホな視点の本なのに、「科学ジャーナリスト大賞」というものを受賞したそうだ。マスコミの本質は「誰が責任か」が正しい道なのだろう。 |