ぼちぼち結論
空港の書店で偶然購入し、飛行機の中で一回、帰ってきてからまた一回読んでしまった。「結論」とあるが、これまでのエッセイと変わることなく聞入ってしまう話が多かったようだ。とくに、教育についてはかなり心配されているようであり、内田樹や諏訪哲二さんの著書をもとに考察されている。「消費者として人生に登場する」子供に対して教育は不可能ではないか、という疑問を話されている。私の年代では学級崩壊は起きていなかったが、「教育を買う」という意識はすでにあったのかもしれいない。 もうひとつ、科学の研究というか「研究」一般についての「そもそも論」について、いろいろ勉強にあった。大上段から構えるのではなく、ぼそっと発言される内容は良く考えると「オレは全く気にしていなかった」と反省してしまう、というは自分を哀れに思ってしまうものだった。 私は大学に四十年いた。自分の研究室がいちおうあって、若者たちもいた。でも、その四十年はあまり幸福ではなかった。なぜなら私に必要だったのは情報ではなく、その処理でもなかったからである。そんなもの、著者(これは、ウェブ進化論の梅田望夫さん)の経験どおりウェブでいい。それなのに大学では、ウェブ的なものばかり、私にかぶせてきた。ウェブ的でないものとは、なにか。「まだ情報化されていない世界」である。それを情報化するのが研究だと私は思っていた。いまでも思っている。でもそれをするにしては、大学とは、貧弱きわまるものだった。 勉強するとは本を読むこと。研究をするとは、難しい問題を設定し、それを解くということ。大学生くらいの私はそんな感じにおもっていた。なかなか幼稚な発想で、時代のせいもあるだろうけど、とても研究者などにはたどり着けない感じがする。が、今では「研究者」の資格を持っている。世の中わからないものである。その私には、分けの分からないものを言葉として定着させるという発想を今まで持てないでいた。工学をやっていたからだろうか。分けの分からないものに立ち向かうことよりも、Do More Betterの流れにのっていた方が来年の予定が立てやすいというものだから。飛行機の中で考え込んでしまった。本当にアホだな、オレはと。 戦後半世紀上、われわれが「進歩発展」と呼んでいたものは、石油の浪費にほかならない。人間が進歩したわけでもなんでもない。安く大量に、石油がつかえるようになっただけである。古代文明は石油の代わりに木材を利用した。だから森が消えるとともに古代文明は滅びた。石油がやってくれたことを、現代人は「自分がやった」と思い込んでいる。その石油はいずれなくなる。私は本音でそれを待っている。それが人類のためであり、子供たちのためである。 この言葉をその意味の通りに理解することができた。いや、実感できた。ここ数年古代文明に興味をもっていて、シューメルを知るにつけ「なんもかわっておらんではないか」と思っていたからだ。普通はその変化は「時間」が行ったものだと思うが、なんてことはない「便利なエネルギー源」が行ったのだ。だから、産業革命などというものがあるのだ。実にあっけなく、なぜ昔の人と今の人は同じようなことをしているのかがよく分かった。だって、同じなんだから同じ事をするだろうということだ。 予算が大型なプロジェクトに身を置いていたことがあると、石油をお金に変更すとそのままいろいろなことが見えてくる。ある人がスゴイと思っていたことは、なんてことはない「単にお金がすごい」のかということだ。私事で恐縮だが、私は本気で「大きな予算のプロジェクト」に一切興味がなくなってしまった。一連の養老先生の本によって、進路を大きく変えてしまったのだ。吉と出るか凶と出るか、それはわからないけど、それでも実によいタイミングで養老先生の一連の本を読めたものだと思っている。
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