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下流志向

内田樹
講談社 1400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 長年気になっていたことが解けました。人生に消費者として登場する子供の悲しさですね。私はこの本で懸念される世代ではないと思っていますが、間違いなく片足を突っ込んでいることは確かです。自分が「買い手:お客」になったら、年齢を問わず大切に自分を扱えと要求できることで、また、実際そうされる。ころを幼時のときに経験したら、人格の成長はそこでストップし、もう復帰する見込みはない。

 「ぼくは買い手である」と名乗りさえすれば、どんな子どもでもマーケットに一人前のプレイヤーとして参入することが許される。その経験のもたらす痺れるような快感が重要なのです。
 幼い子供がこの快感を一度知ってしまったら、どんなことになるのかは想像に難くありません。子供たちはそれからあと、どのような場面でも、まず「買い手」として名乗りを上げること、何よりもまず対面的状況において自らを消費主体として位置づける方法を探すようになるでしょう。当然、学校でも子供たちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取りしようとします。彼らはまるでオークションに参加した金満家たちのように、ふところ手をして、教団の教師をながめます。
 「で、キミは何を売る気なのかね? 気に入ったら買わないでもないよ」
 それを教室の用語に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」
という言葉になるわけです。

 なんと、そうだったのか。それが、「なぜ、勉強するのですか?」という問いが発生するメカニズムなのだ。昔、金八先生という番組で「女がなぜ勉強するのか」ということで騒ぎを起こすという話があった。当時、私も中学生か高校生だったが、「そんなことを考えたことなかった」のである。その質問をしている学生は「要するに、勉強したくないということを言っているのだろう」と思っていた。まぁ、だいたい当たっていたのだが。

 この質問にはどう答えるべきか。いろいろ工夫して、「〜だから勉強した方がいい」と答えるのは絶対にダメ、なのだそうだ。

 学びとは、学ぶ前には知られていなかった度量衡によって、学びの意味や意義が事後的に考量される、そのようなダイナミックなプロセスのことです。学び始めたときと、学んでいる途中と、学び終わったときでは学びの主体そのものが別の人間である、というのが学びのプロセスに身を投じた主体の運命なのです。

 しかし、このような学びのプロセスは、「教育サービス」を購入するために「教育投資」を行う消費主体としての自らを確定した子供には理解不能です。

 そうだ、まったくそうだ。なぜ、学ぶ前に学ぶことに「意味」を知ることができるのか。学んだあらその人は「変わってしまう」とことを知っていれば、学んだ後のことを学ぶ前に評価できるはずはないではないか。

 子供は大人と対等ではない。対等ではないから学ぶのであって、年をとれば対等になるわけではない。実際、学べなかった人がたくさんいるではないか。モンスター・ペアレンツなどはその典型なのだ。

 ここで、一つのことが理解できる。買うという経験をする前に、学ぶという経験をしておく必要がある。これは、絶対だ。数十年前は社会的に当然そうなっていた。お小遣いを貰って何かを買うよりも前に、いろいろなことを教わっていたのだ。学ぶ経験が一つであれば、その後「学ぶって、どうやったっけ」と思い出すことができる。

 しかし、一度も学んだ経験がないと、学びようなどないだ。消費者が学ぶことは、もう出来ないのだ。

 この事実を知った。私はどうだったのだろうか。そして、なぜ、今の学生さんは退廃しているのかよくわかったし、教えるには教えることが可能な人を選定する作業が必要になることも分かった。実に示唆的な本だった。

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