私家版・ユダヤ文化論
ユダヤ人についての考察がまとめられている。まとめるというよりも、展開されている。読んでいて、ある考えが目の前で立ち上がっていく様を「見る」ことができる。自分自身でこのような考察をすることはとてもできないので、人が考えることの仮定とその結果、あるいは、限界について想像を巡らすことができた。頭がいいって、この本ような思考をすることができることが一つの指標なのだろう。他にいろいろあるのだろうけど。 ユダヤ人という不思議な存在は、古代オリエント史に興味をもつ私にはこれまでもずっと興味がった。ただし、日本で生活している限り、あるいは、ヨーロッパの観光地をちょっと回る限りでは想像ができない。アメリカにおけるいわゆる黒人の問題ほど目に見えないのだろう。結局、差別という枠でくくられるものだし、できれば忌避したい話題だからあまり教えてもらえる機会がない。自分で体験することも、直接教えられることも、話題にものらないことなので、本で読むことでしかしることがないものだ。 そういう人を内田さんはどう議論するのだろうか。歴史の中での役割や民俗的な奇習がある方面の能力向上に結びついたという見解のようである。ちょっとまとめすぎた説明なのだが、私にはそもそもこの本の後半部分を半分も理解できなかったので、仕方がない。新書としては珍しく、マジに考察されているし、読者の思考に対する要求も半端なものではない。 さて、この本で歴史を学ぶことにしついて面白い記述を目にした。この意見は「本当に重要」で、そもそも歴史を学ぶ意義そのものを言い当てていると思う。 生来邪悪な人間や暴力的な人間や過度に利己的な人間ばかりが反ユダヤ主義になるのら、ある意味で私たちも気楽である。そんな人間ならば比較的簡単にスクリーニングすることができるからだ。その種の「悪人」だけに警戒の目を向けていれば破局は回避されるだろう。 反ユダヤ主義者のことを考えるとき、靖国神社に祀られているA級戦犯のことを連想することがある。東条英機以下の戦犯たちを「極悪人」であると決めつけてことを終わりにする人々に私は与しない。また、彼らの個人的な資質や事績の卓越を論って、「こんな立派な人間だったのだから、その慰霊は顕彰されて当然だ」と主張する人々にも与しない。むしろ、どうして「そのように、『立派な人間』たちが彼らの愛する国に破滅的な災厄をもたらすことになったのか?」という問いの方に私は興味を抱く。 歴史を考えるときにこの発想が「なぜ」に答えるための補助線になる。ある失敗があったときに、だれが悪い、お前は責任をとれ(心情的には死ねといっている)としか言わないのでれば、上記の発想に全く学ぶところがない。つまり、事件が行ったあとにマスコミに耳を傾けるのは、死刑執行を楽しむ人であることを意味している。そんなことはしなくて良い。むしろ、質の良いドキュメントをなんとか入手することに腐心したほうが良い。ただし、そんなものはメッタに読めないのだけど。 考えること。それはマラソンや書道と同じように、ある程度までは師匠に練習することで身に付けることが出来る。みんなが天才の域まで行けないとしてもね。今年は実に内田樹という尊敬するべきモデルを知ったことが有益なことだったと思う。 |
