日本語の本質
司馬遼太郎さんの文章を読みたくなり、エッセイでも読もうかとぶらりと本棚を探していたらこれを手にしていた。日本語についての対談ならば面白いかなと。ところが読んで見たら少し想像していたものと違っていた。この時代の人はどの人も賢い(というか、知識のカバー範囲がかなりちがっている)ので、その対談が「なぜ、おもしろいのか」についてピンとこないところが想像していた以上にあった。これをつまらないというのだろう。本の善し悪しではなく、マッチングの問題なのだ。 普通の人が使える文章日本語を明治の頃の作家は工夫してつくった。情報伝達ツールとしての現代日本文章語を週刊誌や松本清張さんなどの小説が作っていた。一つのセンテンスには一つの意味しか担わせないというのは、これまでの日本語と真逆をいくことのようで、何気にこうしてメモをつけている言葉もその人たちの工夫の結果なのだなと思う。子供の頃から当然のごとく使われているものは、古代からあるものだと思いがちだから、新しい発見をしてしまったかな。 対談というのは、それが行われた当時の雰囲気なり問題なりを気付かないようでも反映しているのだから、数十年たつとピンとこなくなるようだ。対談は自分の年齢までの古さがよく、それよりも戻る場合は散文によるよりなく、できれば社会事情や社会の価値観を少しでも多く持っておかないと楽しめないようだ。 |
