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インターネット持仏堂

内田樹+釈徹宗
本願寺出版社 各740円
お勧め指数 □□□■■ (3)

 内田樹のウェッブに設けられた「お堂」ようなコーナで浄土真宗についてのやりとりをまとめた往復書簡のような対談のような本。コアは浄土真宗についてということなのだが、教義がどうのこうのいうことよりも社会における人の行動や性質と宗教についての関係についてのやり取りがつづいている。私は浄土真宗に「すっごく」興味がるわけではないので、教義そのものは程々でいい。読んでいていて思うが、もうちょっと編集したほうが読み物としてはいいだろうが、二人のやり取りを感じさせる本でありたいということだから余り手がはっていないのだろう。

 のっけからうなったのは「勧善懲悪」についてのくだり。勧善懲悪が社会に補償されたいたら、人は成長しないし、倫理も生まれないのではないか。そういう疑問である。普通、逆だろう。倫理があるから勧善懲悪でなければならないと考えるのではないのだろうかと思うのが普通だろう。

 むしろ、そういう完全懲悪な社会では、人々は倫理的にふるまう必要を感じなくなります。自分の目の前で犯罪が行われていた場合でも、身体を張って犯罪を阻止したり、被害者を命がけで教護したりする使命感をあまりかんじていないようになるということです。
 だって、そうですよね。すぐに警察がやってきて犯人を逮捕してくれるんですから。何も好きこのんで窮地に飛び込む必要はありません。

 「こんな理不尽な目にあっている自分たちを見てくれている人はかならずいて、その存在がやつらをこらしめてくれるはずだ」という感情はどんな宗教を辛抱していても、いや宗教なんてなくても「感情」として人ならば自然発生的に抱くものだろうと思う。それが、まさに宗教の発生であろう。実際問題現実でそう旨いことはいかない。だから死後の世界にこだわるし、最後の審判だってあってほしい。自分が被害者だと信じている人ならば、もっというと「不当な仕打ちをうけた」と考えている不満がある人ならば、宗教は信じるだろう。蛮族があれくるう古代ローマの末期からキリスト教がヨーロッパを斡旋しった心情的な理由は、今の人にも理解できるはずだし、ぼくはわかる。

 神様の代役のような「月光仮面」が存在していたら、人は幼時の段階にとどまるということか。成長しないはずだという。なぜだろうか。

 ほんらい、悪事がなされると、月光仮面はすぐに登場して、悪を滅ぼすことになっていますが、うっかり事件解決に「遅刻」したりすると、こどもたちはまるで掌を返したように月光仮面を面罵します。
 「なんだ、ぜんぜん正義の味方として役に立たないじゃないか。もう、要らないよ、あんたなんか。月光仮面のバカ!」
 ほんとうなんです。「万能の正義の味方」をめぐるすべての説話に共通するのは、「正義の味方」の勧善懲悪仕事が少しでも遅滞すると、少し前まで「正義の味方」に喝采を送っていた人々が、たちまち態度を一変させて、罵倒の限りを尽くす、というエピソードが盛り込まれていることです。

 そうなんだよ、本当に。自分でもそう思うときがある。相手がサービス業の人だったりすと、怒りすら覚える。「なんだって、金をはらっているのにダメなんだ」という具合に。当然、行政サービスやいわゆる事務作業一般についてもそういう感情を抱く。役所は「そもそもサービスをする動機」がありえないので構造的に仕方ないのだけど、警察や消防、自衛隊のような存在までこの理不尽な「不満の矛先になる」という現象には申し訳なく思う。仕方ないんだよ、そういう時は。

 ネットワークの管理を仕事にしている人はかわいそうだ。技術職なのに、クレーマーのターゲットになるよりないから。そう考えると、ヒーローはもちろんのことだが、インフラに従事する人もこの理不尽な怒りの標的になることになる。

 月光仮面が社会に「安定的に存在しない」理由はここにある。これは、もっと広げて「困っている人を助ける」というタスクはかならず割に合わなくなるので、安定的に存在し得ない、ということを意味しているのだろう。結局、一人一人の中にどれだけ「倫理」を持つのかが気持ちよく暮らすために必要な方法論だろう。宗教がなくなると、面倒な世の中になるということだ。



 

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