街場の現代思想
文化資本のついての記述は衝撃的であり、読んだ後にシュンとなってしまう。ぼくのような普通の人ならばちょっと何かをする気力をすべて失わせるくらいのインパクトがある。これについては『下流志向』の中できちんと語られているので詳細はそちらにゆるずるとしても、でもなお、次のようなことは「はっきり言ってしまったなぁ」というもので、「本当のことを言うもんじゃない」と言われそうな気がする。 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。 よいわるいといった能力の違いの話ではない。文化的なものに対する「感度」の問題なのだ。それは、育ちで決まる。なぜなら、そういう環境に住んでいれば「感度」が自然とあがる。努力しないでも感度が合ってしまう。一方、そうでない生活をした人ならば「勉強」して身に付けるよりない。でもしれは知識なのだ。その違いは、決定的だ。 この本で、ぼくが学んだことは次の方だ。それはいわゆる「決心」に関するなのだ。ある人が「社内改革をするべきか、ベンチャーなどをおこすほうが良いのか」といった、今後の仕事の上での決心を相談しているくだりである。内田樹はこう言う。 (略)職場を自分にとって気分の良い場所に自らの手で作り変えようという「社内改革」は、もちろん「転職」するよりもずっと積極的な選択である。このことに異論がある方はおられないだろう。 こういう発言をしてくれる人が身近にいたらラッキーだ。普通は「がんばれよ、気になら出来る」というようなことか言われない。しかし、現実的に考えたら内田樹のいう通りだ。何かを始める前に決心する。その際に、出来るか出来ないかを問うのは無意味なんだ。その質問は「とりえず始めてみて、なんらかの応答を得られた人、感触をつかんだ人」がするものだ。 これは別の問題にも応用できる。「その仕事に向いているでしょうか?」「なになにになりたいのですが、できるでしょうか?」というあまたあるものに責任を持って答えるには、「聞く前にその作業をしてみろ。その作業のとば口につけたら、すこしつづけてみろ。そうでないかぎり、無意味だ。」つまり、寝言は寝て言え、的な指摘をすればいいのだ。 こう言う指摘をしてくれる人こそ教師なんだな。 |
