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街場の現代思想

内田樹
NTT出版 1400円
お勧め指数 □□□□■ (4)

 文化資本のついての記述は衝撃的であり、読んだ後にシュンとなってしまう。ぼくのような普通の人ならばちょっと何かをする気力をすべて失わせるくらいのインパクトがある。これについては『下流志向』の中できちんと語られているので詳細はそちらにゆるずるとしても、でもなお、次のようなことは「はっきり言ってしまったなぁ」というもので、「本当のことを言うもんじゃない」と言われそうな気がする。

 文化資本はより狭隘な社会集団に排他的に蓄積される性質を持っている。
 文化資本は先ほど述べたように、「気がついたら、もう身についていた」ものであり、「気がついたら、身についていなかった」人は、すでにほとんど回復不能の遅れをとっている。というのは、芸術の鑑識眼についても美食についても作法についても、そのようなものを身に付けたいという欲望をもつということは、すでに「文化資本が身体化されている人」と、そうでない人との間に、歴然とした社会的な際が生じていることの効果だからである。
(かなり省略)
 ひどい話だ。
 「努力したら負け」というのが、このゲームのルールなんだから。
 「努力しないで、はじめから勝っている人が『総取り』する」というのが文化資本主義社会のげんりである。

 よいわるいといった能力の違いの話ではない。文化的なものに対する「感度」の問題なのだ。それは、育ちで決まる。なぜなら、そういう環境に住んでいれば「感度」が自然とあがる。努力しないでも感度が合ってしまう。一方、そうでない生活をした人ならば「勉強」して身に付けるよりない。でもしれは知識なのだ。その違いは、決定的だ。

 この本で、ぼくが学んだことは次の方だ。それはいわゆる「決心」に関するなのだ。ある人が「社内改革をするべきか、ベンチャーなどをおこすほうが良いのか」といった、今後の仕事の上での決心を相談しているくだりである。内田樹はこう言う。

 (略)職場を自分にとって気分の良い場所に自らの手で作り変えようという「社内改革」は、もちろん「転職」するよりもずっと積極的な選択である。このことに異論がある方はおられないだろう。
 だが、多くの人が見落としていることがある。
 それは何かの計画について「可能性があるか否か」が論じられるのは、すでにその可能性がある程度まで経験的に確証された」場合に限られる、ということである。
 例えば、君がプロのピアニストとしてやっていけるかどうかという可能性について検討する場合、少なくとも君はピアノが弾けなければならない。「ピアノは弾けないのですが、プロのピアニストとしてやっていけるでしょうか?」というような問いにまじめに答えてくれる人間はどこにもいない。
 社内改革もそれと同じである。
 (略)
 社内改革の運動というものは、「もう始まっていて、君がすでにコミットしており、それゆえ会社に行く毎日がたいへん愉快である」というかたちでしか存在しない。「あぁ、会社行くのがつまんねーな。いっそ、社内改革しちゃおうかな」というような発言というのは原理的にありえないのである。

 こういう発言をしてくれる人が身近にいたらラッキーだ。普通は「がんばれよ、気になら出来る」というようなことか言われない。しかし、現実的に考えたら内田樹のいう通りだ。何かを始める前に決心する。その際に、出来るか出来ないかを問うのは無意味なんだ。その質問は「とりえず始めてみて、なんらかの応答を得られた人、感触をつかんだ人」がするものだ。

 これは別の問題にも応用できる。「その仕事に向いているでしょうか?」「なになにになりたいのですが、できるでしょうか?」というあまたあるものに責任を持って答えるには、「聞く前にその作業をしてみろ。その作業のとば口につけたら、すこしつづけてみろ。そうでないかぎり、無意味だ。」つまり、寝言は寝て言え、的な指摘をすればいいのだ。

 こう言う指摘をしてくれる人こそ教師なんだな。
 
 

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