ソクラテス最後の十三日
ソクラテスくらい知っている。無知の知だろ。饗宴で話し合うやつ。毒杯で死んだんだよね。とまぁ、いってみればこのくらいしか知らなかった。哲学でいえば、いろはのい。専門にする人ならば知っているのだろうなぁ、でも、普通の生活をする上でどこまで必要なのかわからないし、そもそも哲学の本って、人にわからせようと思って書かれていないので、好きじゃない。ぼくはそう思ってこれまで敬遠していた。本棚には一時森本哲郎の本を古本で買い集めた事があって、読んでないものも何冊があった。最近、森本哲郎の本を読んで、やっぱいいいと思った。そういうわけで、古本を読んでみたのだ。 いわゆる歴史小説とも違う。森本哲郎の本は、旅と思索のエッセイとも小説ともつかない本なのだけど、この本も歴史小説といわれればそうなのかもしれないが、ちょっと変わっている。この本も、森本本なのだ。結局、思索が中心で、普通の人ならば理解できるようなレベルの言葉でゆっくりと考えがまとまっていく。論理を積み重ねて、だから正しいという人の話は聞かないことにしているのだけど、ソクラテスがもしこういうふううに考えて、それを議論していたのであったら、哲学は普通の人と値が鋳物だったのだろうなと思う。そして、おそらくはそうだったのだろう。 誰の本だったか、ソクラテスは死ぬということを知らなかったはずだから毒杯をのむことについて全く恐れなどもっていなかったはずだ、と書かれていたのを読んだことがある。そのときは、そうなのかもなと思っていたが、この本を読むと知らないから恐れていたのではなく、精神が不滅だと「信じていた」から、恐れる必要ないと自分に言い聞かせていたようである。信じていたから恐れないのならば、ソクラテスも信心深かったのだ。もちろん、ギリシャの神々は信じていたから、言葉の使い方は間違っていないのだが。 もちろん、牢獄に入れられていた期間の思索を含め、精神的なないようは森本哲郎の理解なのだが、もっといえば原本もプラトンの理解なわけで、結局本当のところなどわかるはずはないし、わかる必要もない。歴史学の場合は史実との関係で人の行動についての正確性が問われるが、行為にいたるまえでの思索まではあまり表現されない。だから、素人の私は歴史学に興味を持たない。なぜならば、自分にとって関係があるのは人の思索だから。事実とは異なるもものだろうし、プラトンの残したものとも違っているのかもしれいこの森本哲郎のソクラテスであるが、いわゆるソクラテスを少しは知っていることにしようと思う。 |