レバノンの白い山
30年以上まえに出版されたレバノンの神について。著者は学者なんだけど、中身は予想に反して退屈しなかったし、飛ばしたりもしないですんだ(もっとも、本論だけでおまけの論文は飛ばしたのだが)。学者の書く本は動機にあいまいなものがおおく、要するにオレは偉いといいたのか、仕事だから情報らしきものを垂れ流しているようなものばかりだったので、この本もそうかなと疑っていたのだが、外れた。著者の体系化された知識の開示で、本が面白くなるわけがない。この本は、著者が本心から感心したり疑問に思っていたことを主題にしたからよかったのだろう。 レバノンについて、知っていることなどほとんどない。中東にあり、イスラエルの上、シリアの横。それくらい自分とは遠い存在なのだ。著者は導入に、ちょっとしたら気候の不思議から入っている。寺田寅彦的なちょっとした物理の解説で、レバノン山があるために地中海から吹く冬の西風がレバノンに雨期をつくるというもの。砂漠ばかりある地域なのに、しっかり雨が降る。がゆえに、作物ができる。その環境が砂漠の民たちと違うメンタリティーをレバノンの人に与えた。その中に、毎年巡る雨期明けに植物が芽吹く「再生」という概念も含まれていた。そして、それが「神」となる。そういう解説なのだ。 この本は解説だから日本語で表現されていることに疑問を感じないが、職業として作成する論文は日本語なのだろうか? いくら日本語で書いたとしても、読む人は日本人だけだ。中東の歴史ならば、そもそも中東の話であって、議論の中心も記録の中心も中東の方にあるのだろう。必ずしも英語で書く必要はないだろうけど、それでも日本語よりはいいような気がする。もちろん、この分野の研究者はアラビア語をはじめ何カ国語も操れるのだろうから、日本語にしたのは日本人に向けたメッセージだからだろう。その動機はどこからくるのだろうか。 日本人は英語を本気で勉強するよりも、日本語訳をたくさんつくるという方法のほうが好きみたい。それって、すっごくコストがかかるのだけど、歴史的なクセなのかもしれない。日本人ならば日本語がつかえる。日本語の本があれば、読む努力を惜しまなければ大抵のことを知ることができる。この戦略が有効な理由は、この本の著者のような人がいるからだろう。業績を狙っているのではない、文化を蓄積してくれているのだ。せっかくだから、もっと古本を掘り返してみて、いろいろ読んでみようと思っている。
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