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ぼくの作文学校

森本哲郎
角川書店 980円
お勧め指数 □□□□□ (5)
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 森本哲郎の自伝的文章術獲得の物語。だれも最初は「わからん」ものなのかと思い、大いに共感し、そして、安心した。子供の頃から文才がある人はいるだろうし、どの分野にもそういう人は存在して大いに良いものを残して欲しいと思っているが、そうでない人がどれくらいいるのかも興味を持っていた。森本さんはどちらかといえばどうすれば文章が書けるようになれるのかを大学になってまで思い悩んだ口なのかと知ってうれしくなった。

 動機は単純なものだ。「どうやったら、自分が思っていることをすらすら文章にできるのか」 文章を学び、書きたいと思うようになった動機はこれ以上ないくらい単純明解だ。そして、ぼくもそうなんだ。同じ動機。別に小説家になりたいわけじゃない。だれもが文学者になりたいわけではないけれど、空を飛んでみたいと同じような動機で絵を描いてみたい、楽器を弾いてみたいと思うことがあるだろう。確かに、最終的に歴史にたえる「作品」を残すには長い時間やり続ける必要があり、そのためにプロになるのが普通だろう。でも、まぁまぁのレベルでもすいすいできれば楽しいだろうなと思っているはたくさんいるはず。ブログを始める人だって多くの人が「自分の考えていることを表現できたら面白いだろう」になっているはずだ。

 この本では小学生時代の作文の宿題の思い出から始まっている。学校の宿題。「自分の思ったことを書けばいいんだ」という、あの無責任な宿題である。読書感想文でも「感想を書けばいいんだよ」などと言われた。今でもこうしたインチキ授業が行われているのだろうか。そうでないことを祈りたいものだ。
 さて、思ったことを書こうとして書けないでいた森本少年は結果的にどうしたかというと、

そしてぼくは、作文というヤツは、要するに何かを「思う」ことなんだ、と、おそまきながら気がついたのであった。

 これ、およそモノを表現する人にはすべて当てはまるのじゃないかと思う言葉だ。そうなんだよ、そもそも普段から「考えていない」と何もでてきやしない。占い師に言い当てられたかのようにぼくはビックリしたが、少年時代にそういうことを悟れた森本哲郎はスゴイ。社会の普通の人は毎日毎日いろんなことを考えて生きているような顔をしているけど、さてブログでも書こうかなと思って「ネタがない」という段階になって、「普段は何も思っていなかった」ということがバレるものだ。しかし、それを自覚できないもの。


 通常の感想文というのは、この本が面白かったつまらなかったと書いてしまうところからスタートするものだが、それはよくみると本の紹介ではなくて「書いている自分の紹介」になっていることが多い。

作者はまず、自分がこれから何を書こうとしているのか、それを書きたいわけは何か、どういう側面について書くのか、つまり主題をはっきりとこわっているじゃないか。

 こういう具合に、いろんな人から「文章を書くとは」を教わりながら文章についての思索つづられていき、新聞記者になり、日曜版の記事を書くというところまで進んでいく。読んでいると自分も成長した気分になる。

 そして、文章上達についてはこういう見解のようである。

 英語を勉強するには英文を和訳するのと同時に、和文を英訳する練習をしなければならない。それとおなじで、文章を学ぶには、書くことはもちろん、同時に、読むことに習熟しなければならないのである。読むことは書くことと同様、内言語、外言語(自分の頭のなかだけで使っている理解の道具を内言語、他人とコミュニケーションのために生成する道具を外言語と言っている)の翻訳になれるということだからである。
 面倒がらずに読み、かつ、書くこと ー 作文の秘訣は、やはりこれ以外になさそうである。

 おそらく、そうなんだろう。だから、これ以上「文章術」なるようは本を読むのはやめようかと思っている。もちろん、この本も文章術の本で、だからこそこの文章に出会えたという事実はあるのだが。

 だが、そうはいっても、文章を書くための根本条件は、やはり第一に、書きたいものを心の中にもつということだ。いくら内言語と外言語の翻訳に自身がついても、かんじんな何を書くか、それが頭になければ文章はつくれまい。じつをいうと、ぼくがこれまで考え続けてきたのは、まさにそのことだった。何を、どう、考えたらいいのかーそのためにぼくは苦闘しつづけてきたのである。しかし、考えは無からは生まれない。考えるには考える材料がいる。その材料とは知識であり、情感であり、さまざまなイメージであり、疑問であり、それらすべてをひっくるめて「関心」といってもよい。つまり、何かに関心がなければべつに考えることもなく、何も考えなければー文章に技術にどれほど通じていようとーひとかけらの文章も書けないのだ。したがって、作文にとって何よりも必要なことは「関心」であり、心のなかになにを書きたいと思うことをいつも持っていることといってよかろう。なんとも迂遠な道のように思えるかもしれないが、「関心」こそが文章をつくりあげるのだ、ということを明記すべきであろう。

 これまでずっと知りたかったことの答えがある。ただし、それは半ば予想通り半ば意外なものだ。ぼくにとってだが。
 何かを始めるとき、道具や技術が「ない」から思った通りのことができないと考えるのは仕方ないことだが、ある程度歳をとると「道具や技術じゃない」と悟る機会はある。
 しかし、道具や技術じゃないと宣言してしまうと、そこで「才能論」になってしまう。そうなったら全てが無に帰すことになる。無責任な人は才能論をいうのだが、才能論は「結果がでたときになって」始めて才能があったといえるものであって、結果がでるまではなんともいえない性質のものだ。だから、これから何かをやろうという人には有効な議論の材料にはならない。

 文章はなぜ存在するのかから考える。自分が関心をもち、それを相手に伝える。その動機があるかぎり、読むこと書くことを訓練すればいい。ただ、それだけなのだ。
 ぼくも文章が上手になりたいと思っている。ならば、ただ読みと書きを工夫しながら続ければいい、ということだ。

 

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