« 対談・日本人と聖書 | メイン | 聖書を読み解く »

反ユダヤ主義を美術で読む

秦剛平
青土社 2400円
お勧め指数 □□□□□ (5)

 毎年楽しみにしているシリーズが今年も出版された。今回にテーマは反ユダヤ主義である。著者が長年追っているテーマのはずで、今回も(あるいみテロの標的になることも恐れず)ずばっと断言してくれているので、キリスト教やユダヤ教とは無縁の順な日本人であるぼくのも「そういうことか」と疑問が氷解する講義であろうと期待し、そしてその通りの内容であった。

ユダヤ人たちは、その場所がどこであれ、民族の習慣を守って生活する。民族独自の慣習を遵守すれば、その生き方は周囲の者たちの中で浮き上がる。浮き上がれば、ひそひそとその習慣が貶められる。なぜ彼らは皇帝像の前で頭を下げないのか? なぜ彼らは金曜日の日没時からシナゴークに集まるのか? 好奇心は猜疑に転じ、猜疑は憎しみに変わる。異邦人たちがユダヤ人にたいする憎しみを共有するとき、それは煮沸しはじめ、飽和点に達すると爆発する。その爆発は凄惨である。肉片が四方八方に飛び散る酸鼻をきわめるものである。

 反ユダヤ的感情、反ユダヤ主義を順をおって解説してくれる本書の内容であるのだが、上記の引用はその核心を短く表現しているので、この引用が含まれている前書きだけ読んでも目的は達成できるのではないかと思う。

 要するに、猜疑が憎しみに変わってしまうという人ならばだれでももつ心理の特性があり、それが容易に再現してしまような社会の中での生活をしてしまう人たちが(いまもだろうけど)いた。なんというか、運が悪いということなんじゃないかと、ぼくは思ってしまう。

 いったん憎しみに変わってしまったものを「教義」としてキリスト教は取り込んでいる。それは、容易に出される場合と背景に塗りこめられてしまうけど、キリスト教の図像をみるについて、なんともこまったものを内包しているのだなとよく理解できる。とくに、部外者である日本人の多くは「なるほど、西洋史ってのはこういう心理ダイナミクスの積み重ねなんだな。それを、まだやっているのか」ということに気付くことができる。

 人の心理ダイナミクスは、場所も時間も越える。だから、「猜疑は憎しみに変わる」という反ユダヤ的な感情は、現代で普通の生活を営んでるぼくにだって容易に理解できる。いったん猜疑心をもった相手は、憎らしく思ってしまうのが普通だから。

 また逆に、おかしなことをやっていると他のグループから猜疑の目で見られることになり、それはすぐに憎しみに変わりひどい目にあってしまうことにもなる。人と違うということを、故意に主張し続けるとろくなことにならないだろういう教訓が引き出せるわけだ。


 それにしてもこの秦剛平という人はスゴイ人だ。あまりに関心してしまったので、この本の元ネタになっているセミナーを受講しようと思っている。

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.significa.jp/scienza/BlogMgrMt/mt-tb.cgi/590

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)