反ユダヤ主義を美術で読む
毎年楽しみにしているシリーズが今年も出版された。今回にテーマは反ユダヤ主義である。著者が長年追っているテーマのはずで、今回も(あるいみテロの標的になることも恐れず)ずばっと断言してくれているので、キリスト教やユダヤ教とは無縁の順な日本人であるぼくのも「そういうことか」と疑問が氷解する講義であろうと期待し、そしてその通りの内容であった。
反ユダヤ的感情、反ユダヤ主義を順をおって解説してくれる本書の内容であるのだが、上記の引用はその核心を短く表現しているので、この引用が含まれている前書きだけ読んでも目的は達成できるのではないかと思う。 要するに、猜疑が憎しみに変わってしまうという人ならばだれでももつ心理の特性があり、それが容易に再現してしまような社会の中での生活をしてしまう人たちが(いまもだろうけど)いた。なんというか、運が悪いということなんじゃないかと、ぼくは思ってしまう。 いったん憎しみに変わってしまったものを「教義」としてキリスト教は取り込んでいる。それは、容易に出される場合と背景に塗りこめられてしまうけど、キリスト教の図像をみるについて、なんともこまったものを内包しているのだなとよく理解できる。とくに、部外者である日本人の多くは「なるほど、西洋史ってのはこういう心理ダイナミクスの積み重ねなんだな。それを、まだやっているのか」ということに気付くことができる。 人の心理ダイナミクスは、場所も時間も越える。だから、「猜疑は憎しみに変わる」という反ユダヤ的な感情は、現代で普通の生活を営んでるぼくにだって容易に理解できる。いったん猜疑心をもった相手は、憎らしく思ってしまうのが普通だから。 また逆に、おかしなことをやっていると他のグループから猜疑の目で見られることになり、それはすぐに憎しみに変わりひどい目にあってしまうことにもなる。人と違うということを、故意に主張し続けるとろくなことにならないだろういう教訓が引き出せるわけだ。
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