聖書を読み解く
秦剛平さんの本がないかなと古本を探してたときに目に止まった。この著者の本は以前何冊か読んだ事がある。レバノンの本はよかった。この本はずいぶんと最近のものだ。この著者はキリスト教どっぷりの学者さんじゃなさそうだし、他に新書なども書いていたはずだ。ならば、ねっ転がって楽しく読めるかなと思ったので購入してみた。 タイトルにある「読み解く」というスゴイ作業まではしていない。旧約と新訳のさわりを概観させてくれ、その記述なり人々の習慣なりの背景を地理や歴史や習慣などの関係を示してくれる。だから、ぼくのような門外漢からすると見通しの良い本になっている。 そういう習慣なり風習なりの発生について「なぜ」と問うポイントやその解説が古代オリエントの歴史から解説されている部分は読んでいて納得する。「そもそも」を知っていく喜びを感じる。神話にも起源があるはずだ。 内容の雰囲気が新訳にはいると急に変わる。自分が突然違う世界に放り込まれてしまった気分がする。旧約の物語はそれがとっぴなものであっても「まぁ、古事記見たいなもの」だし、それが教訓化されていく背景として「その風土で生きていくための方法」のようなものを感じ取れたから、にこにこして読める。しかし、新訳は「いかん、教団に紛れ込んでしまった」というような「不自然さ」と「人の意図」を感じてしまう内容で、正直集中できない。 著者は教団が周りの迫害のなかで行きていくための複数のような、あるいは、当時に時事問題ような解説をつけてくれる。だから、新訳成立の過程とその当時の人についてわからないではないが、共感できない。 しかし、読んでしまうところもある。それは例外なく「詩」である。マタイの山上の垂訓は、なるほど実に見事な「詩」なのだ。翻訳もわるくない。だから、内容と関わらず詩として人を魅了する。現代の人ならば、この詩に惹きつけられる人もいるだろう。なるほど、新訳は論理ではないのだ。 さて、ねっ転がって読むにはちょうどよかったのだが、巻末に著者の言葉に、この本はもともと「朝日カルチャーセンター」講義のメモから発展したものだという旨の記述があった。朝日カルチャーセンター、おそるべし。 |
