そしてーぼくは迷宮へ行った。
旅がしたくなる。砂漠とか古代遺跡とか。そういうところを歩き回る。暑くて外にでれないときは昼寝をし、寒くてくらい場所では凍えないがら風景をみる。その場所にあるものを見ながら、世界史や文学について学んだことを思い出す。あぁ、それはここだったのか。 なんてことはない、街道をゆく、みたいなものである。日本史に興味があるならばそれもいい。読むことがおいしい飲み物を飲むかのような気分になれる司馬遼太郎の文章もよいだろう。 しかし、ぼくは砂漠や遺跡のほうに興味を持ち続けている。だから、森本哲郎の方が断然好きである。砂漠の場面では風紋が海岸では波の音が聞こえてくる。自宅でねっ転がっているのに、古代遺跡を前に佇んでいる気分になれる。アクロポリスやモヘンジョ=ダロにいるような気分になれる。今ではレバノンやイラクには行けないから、想像の中で楽しむよりない。 この本で訪れる場所は、サハラ、クノッソス、インダス、ペルセポリス、ピラミッド、イースター、クメールというキーワードでかたれる場所。「謎」というテーマのテレビ番組で放送されつくしている感があるので、今どきの人は「もういいよ」というのかもしれない。実際、激しく観光地化されているだろうし。だから、実際行ったところで楽しくないだろう。 しかし、森本哲郎が訪れているのは60年代、70年代、そして80年代。いまみたいにディスティネーションツーリズムが儲かるビジネスとしてはさほど認識されていなかった時代。だから、廃虚が廃虚なりにわびしい感がただよっている。そういうものを読むのが、なんともわびしい気分になれて、つい読んてしまう。 読んでいて楽しいけれど、一方で勉強しなくっちゃとも思う。今から勉強してもなぁと思っているくらいだったら勉強したほうがいいや。世界史や世界文学を知らなすぎるのだ、だいたいぼくは。そういう蓄積があるから、旅をしても楽しいんだろうな。 ただ、そういう旅は頭の中の旅になってしまうような気がする。現物をみいるのに、頭の中の知識を参照してばかりになってしまうかも。そういうときはどうするか。 現地の普通の人がいく食堂で飯を食うことだ。現実にそこで「接地」することになるから。 まだ、森本節郎の本で読んでいないものはある。そういうものを古本でちまちま探していく。今はネットがるから簡単に入手できるし。 |










