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身体知

内田樹+三砂ちづる
バジリコ
お勧め指数 □□□□■ (4)
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 女性の身体についての話を軸に展開されている対談なだけに、もうひとつピンとこない状態であったが、時たま面白いこと言ってくれる。

 極論しちゃうと、なんでもデタラメな時のほうがいいんです。アウトプットの査定が標準化してくると、活気がなくなってきて、やがてジャンル自体が死滅する。そういうもんなんです。ぼくのいたフランス文学がいい例です。仏文は一九五〇〜一九六〇年代の途中まではすごく活気があった分野なんです。戦後のフランスという国に文化的な発進力があったからですけど、実際に仏文科から面白い人が輩出した。日本では六〇年代から大学の新設ラッシュがありましたね。(中略)

 その後で大学数が落ち着いてきて、大学院卒業生がコンスタントに供給されるようになると、標準的な評価システムが整ってくる。そうするともう秀才しか大学の教師になれなくなる。そして、ほんとうに不思議なことですけど、大学の教授陣が秀才だけになると同時に、その分野の学術的な生産性が一気に落ちるわけです。あたりまえですけど、秀才というのは、定義上、既存の標準的な査定基準でハイスコアを取る知性ですから、既存の領域では累積的に研究は進むのですが、新しい学術的パラダイムの創出にはほとんど寄与しない。逆に、学術的な地殻変動をおこすような因子は構造的に排除されるようになる。

 だって、業界の承認を受けないと教師になれないんだから。教師になるためには既存の学問での標準的な査定をパスしないといけない。どれほど独創的な知性でも、スタート地点では同業者集団の規範を受け入れなければそもそも教師になれない。結局、標準的な査定システムが整った領域には、秀才だけが集まるようになる。そうやって英文も独文も仏文も国文もダメになった。

 この発言は本書の本流からすこしはずれた場所のものだけど、何度か読み返してしまった。これは文系の話だけど、大筋理科系でも同じだ。標準化ということが対象にまで適用されると、そもそもそんな学問どこが面白いのだろうと思えてくる。ぼくはそう思っていたし、周りの人もそうなのかと思っていたが、意外に違うようだ。自分では新しもの好きだとか言っている秀才君は、自分が中心になれそうもない話は「くだらない」って言うんだよね。べつの学問にかぎらず、いちいち全部そうだったりすることに気付くと、秀才君と一緒にいるのは人生のムダでしないことに気づく。

 こんなことをこの本で語るべきではないだろうけど、人って読んでいる内容から勝手な結論を引き出して頷いていることが多いのだから、まぁいいだろう。


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