映画の構造分析
映画論ではなく、映画を題材として現代思想を語るというお話である。お話というところがよい。 物語を語るな、ということは、知ることも、批評することも、コミュニケーションすることも、すべてを断念せよということです。(P19) そういえば、あらゆることで「わかった」という事柄は「筋」をもっているような気がする。理解できたことは、「お話としてたとえ話をつかって説明できる」ことであるような気もする。 「意味のある」断片を組み合わせて、「意味の通る」文脈を作り上げるのではありません。逆です。文脈が決まらない限り、断片は「無意味」なままなのです。まず「物語」の大枠が決まって、その後に現実的細部を帯びるようになるのです。「知る」ということは、それまで意味のわからなかった断片の「意味のが分かる」ということです。そして「意味が分かる」ということは要するに「ある物語の文脈の中に修まった」ということです。 ああぁ、そうだったのか。いや、そうだよね。よく断言してくれました。そうかぁ、やっぱりそれでよかったのか。物語に変換出来た時点で「理解しちゃったもんね」となるのか。だから、人は物語を聞きたがるのかもしれない。 そういえば、子供の頃、本を読むことが勉強することだと思っていた。小説を読んで勉強になるのだろうかという疑問はもたなかった。物語というものをたくさん自分に入れていくことで、また、物語が物語として面白かったりつまらなかったりするというバリエーションを知ることで、何かを理解したときの疑似体験にはなったのかもしれない。 この本は映画をテーマにしている。それからいえば本筋の、あの場面はあのメタファー、みたいな説明って面白くなかった。「気づかなかったかもしれないけど、実はそうなんだよね」という説明はあとあと聞くと感心する。ブライアン・キーのCMの説明みたいなものだ。 しかし、そういうのって製作再度の技術のような気がする。「なぜこの映画は面白いのだろう」という解説ならばありだと思うけど、あることに興味をもったとして、その理由を解説されると興ざめないか。面白いものを面白いという印象をもったまま生きていたほうがいいんじゃないかとも思ったりする。 |
