世の中に流布している信憑をとりあげ、それが単純なウソであること、そして、なぜそれがウソとして流布するばかりか法律となっていたり、あるいは、行動が推奨されているのかを一つ一つ言及してくれている。
こういうことをきちんと本にし、義務教育終了時点での知的水準で十分に理解できるかたちで発表してくれる人は、その国に暮らす人にとってとても有り難いことである。
テーマは環境問題についてである。いわゆるレジ袋からはじまる「市民運動」や「環境行政」には、まともに科学・工学を学んだ人からみるとおかしなことが沢山ある。
話をあいまいにしようとせず、一問一答という形で「全く効果がない」とか「意味がある」とか結論づけている。普通の大学の先生はちがう。揚げ足をとることが目的であるクレーマーを相手にすると切りがないので、大学の先生などはあいまな結論をだす。一番多いのは「場合による」という語法で語る。しかし、この著者は本当に主張しておかないと日本が危ないと考えているから、自分で火中の栗を拾う覚悟をもって断言してくれる。そういう人の言葉は傾聴に値する。
テレビのコメンテーターや国(いわゆる役所)の人が国民の幸せを願うことはない。かれらは、自分の幸せを願っている。できれば、行政職の人が優遇される社会であるべきで、一般の人などどうでもいいと考えている。こういうことは、実際に役人と向き合って話をすればよくわかる。
ただし、法律も国家予算も手にしているのは彼らである。マスコミの制御権すらある。普通の人が戦うにはあまりにも勝算がない。役所のまわりをシュプレヒコールを挙げてうろうろするのでは全く効果がない。
どうころんでも転げ落ちていく日本をよくすることはできないだろうとぼくは思っている。
この本がどんなに話題になっても、100万部とかいうオーダーである(そんなにいかないことは分かっている)。とすると、この本で示唆されている環境問題の風説や根拠のない対策のおかしさに気づく人は最大100万人である。
となれば、おかしなことを正すという行為は無理である。普通の人はそれすら分からないからである。
「ところで、先生は結局どうしたらよいと思いますか?」と、環境の講演をするとよく聞かれます。そんなとき、私は、
「好きな人がいれば、1杯のコーヒーでも夢のような2時間を過ごすことができる。もし好きな人がいなければ、電気街に行ってパソコンを山ほど買い、一人で家にこもるよりない」
と答えることにしています。(P221)
環境問題は果てしない欲望からきている。大抵のことは必要以上の量を求めることに元凶がある。仏教のように欲望を捨てることを人々に説いてもムダである。
結局日本がどうなるのか。ハンドルは持っている人の普通の人がない。だから、おかしくなっていく時代を自分の体験として吸収するよりない。これもこういう時代に居合せた因果である。今現在はとても過ごしやすい時代である。それは長続きしない、とその時代にいる人がわかるわけがない。昨日の続きに明日があることはない。歴史がどれだけ教訓を残してくれていても。
そんなときに何をもって自分の幸せとするのか、そもそも何を得たいから生きているのか、得る必要があるのか。そういった基本的なことを長い時間をかけて自分で考えていくよりないと思っている。
そして、その回答は意外にコスト安で達成できるのではないかと思っている。