武田邦彦のこのシリーズは目から鱗を体感させてくれる本の代表例である。そのシリーズの最新刊が出版された。三冊目ということで、これで完結するようだ。まだ言い足りない事があるのかという驚きと、もうこれで終わりなのかという寂しさが交差する。ともかく、買って読んでみなければならないだろう。
内容はこれまでと同様、なぜ環境問題が政治問題であって、科学的な結論とは言えないのかをきっちり説明してくれる。おそらくだが、中学生であってもマスコミの報道や政府の環境についての対応は「おかしい」のだとと理解することができるはずである。
これは大切なことだが、こういうことは学校において教師が自ら考えた結果をきちっと自分と関係がある生徒には伝える必要がある。マスコミや政府の発言を止めることができるのは、いわゆる教師が最後の防火壁なのだ。
子供であればあるほど、子供の頃に耳にした教師の本気の発言は覚えている。ただし、子供は納得したという表情で答えてくれたり、言葉で理解した事を表現してくれたりはしないかもしれない。しかし、本気の発言は子供であてもわかる。自然と印象づけられてしまうのだ。
問題はオトナである。まじめなオトナは科学的な結果だと言われると素直に受け入れてしまう。もちろん、大坂商人のような人ならばいざしらず、サラリーマンや主婦などは、権威や人気者の発言を是とするはずで、自ら考えることなどしない。
いったん原理主義になってしまうと思考停止状態におちる。そうなると、お上の発表を絶対してしまう人が多い。あるいは、周りも自分と同じように行動するよう指示することもある。赤の他人にも指示しようとするくらいなので、自分の子供には強制するだろう。こういう人の子供は災難である。
現在子供でも十年すればオトナである。ならば、今地球温暖化が絶対だと思っている人を相手にしても仕方ない。
こんなことを考えると、環境問題は単なる宗教問題なのだということが分かる。
環境問題において、自分でできることはない。密度とスケールということを考えれば、個人できることは効果がないのである。人一人一人の行動など対した結果を生む事はないという典型例になっている。
もちろん、大勢の人で協力すれば何がしらのことができると考える人もいるだろう。しかし、いわゆる政府の行動とはこの原理に従ったものである。
しかし、絶対的なエネルギーを消費する産業なりが対応しなければ、全体的に意味がないのである。
局所最適なことが全体最適に繋がることはほとんどないという例である。世界は線形ではない。
環境問題を煽る人がいる。そうする人の動機はなんなのだろうか。
これには一つの答えはない。研究者はつまるところ研究予算を増額するためである。研究者でない人は、自らの存在意義を確立するためである。あるいは、その方が売れるからとう企業もいるだろう。さらには、悪い事ではないことを主張することに賛成という人もいるだろう。
賛成派の多くはそれぞれのために賛成しているのである。ここの人々にとってはとても大切なことであって、誰からも文句を言われる筋合いはない。
資本主義が蔓延すると、マーケットの判断は常に正しいことになる。多く人が温暖化に憂慮し、それに対して対応をとるのならば、それはそれで仕方ないではないか。ある意味仕方ないことである。
しかし、マーケットの答えも常に正しいわけではない。それで多くの被害を被る人もいるし、実際金融危機などはマーケットが正しいわけではないことを証明しているようなものである。
環境問題についてはもう少し自分で調べてみたい。科学的にどこまで結果が妥当なのかを知るためではなく、数値計算での予測に社会がどこまで投資をしていいものなのかを判断するためである。この本の主張に同意するのではなく、以前から温暖化対策を叫ぶ人立ちに疑問に感じていたのである。
温暖化は政治問題であると直観的にも理解できる。温暖化の証拠とされる観測結果といわれる証拠を見ても、スーパーコンピューターの計算結果を見ても疑問を感じる。
例えば、観測結果については、サンプリングポイントが地球表面一様ではないことと、精度のばらつきに対する補償がどこまで考察されているのかに疑問を持っている。
一方、計算結果については、複雑系の計算をするための初期値をどうしたのか、それと計算結果が正常であると言い切る指標としてどういうものを使ったのか知りたいのである。単に計算した結果などというものは、相手にされないものなのだが、なぜ地球温暖化ではそれが許されるのか。それを知りたい。