飛行機の中で読む本は塩野七生と決めている。今回のイギリス出張ではこの本を選定した。ちょうど一週間前に発売されたからだ。
この本は『痛快・ローマ学』を再編集した単行本の文庫本である。なのでこれまで二回は読んでいる。内容もおぼろげに記憶に残っている。それでもまた買って読むことにした。
著者がローマ人を書き始めて中盤に入った頃に書き下ろした本なので、ローマ建国からネロまでいかないくらいの話である。ローマと言う国の成立、発展・挫折・発展・挫折という繰り返しを語るなかで、それらの原因が刻々と変化していくところが面白いのだ。ある方法が原因で成功しても、まったく同じ方法が原因で失敗してしまう。別のだれかが工夫してうまく国を発展させたとしても、その工夫が仇となって国が停滞する。この過程がいちいち解説されている、世にも面白い物語である。
歴史の授業であるような大ざっぱなものでも、学者の著作のような微視的なものでもない。普通の人がローマ史を自分のために役立てるとしたらどんなものになるだろうか、という問いがあるとしたら、その問いに対する塩野七生流の解答なのだ。ぼくはこれに感動する。何度読んでも感動する。
「それはなぜか、どのような状態においてか」という質問を先生に投げ掛け続けたという塩野七生の学生時代の思い出話があるが、その疑問の著者なりの解答が結果的に本になっているのだ。質問を発したのが中学生・高校生あるいは大学生の頃の著者なのだから、その質問の解答も中学生・高校生・大学生で理解できる範囲にまとまっている。あるいは、市井の人ならば十分理解できる語彙と例えと物語で解答が構成されている。だから、一般の人が読めばこそ面白いのだ。
なぜ、学者の書くものは面白くないのか。その理由はある意味簡単である。学者は自分の研究のために問題をひねり出し、それにもっともらしいことを答えているからだ。それが「学問」していることになっている。しかし、それは市井の人とは関係がない。問題設定も解答も市井の人とは関係がない。だから学者の書くものはつまらない。もっといえば、市井の人にとって学問なぞゴミである。
塩野七生のやり方は、問題を自分の分かるところまで追い込み、勉強をし、それを市井の人の想像可能な範囲で想像しながら解答をつくっている。もちろん、普通の人が皇帝の気持ちなどわかるはずもないが、それを上手い具合に架橋している。その方法の一つが「物語」を使っているところである。
あらゆる知識は物語として脳にインプットされるのだとぼくは思っている。だから、いかにして知りたい対象を物語の形式に翻訳するかで理解できるかどうか決まる。学者や知識人は物語を嫌う理由は、物語だと皆が理解できてしまうところにある。「どうだ、おれは偉いんだ感」が薄れるからである。
記憶はつまるところ物語だと思うので、塩野七生のような姿勢には心底感謝している。すくなくとも、僕の人生を隆にしてくれたから。
成功しては失敗し、成功しては失敗し。その繰り返しを読んでいると、人って絶えず環境に適応していく必要があるのだなと理解できる。
あるときうまくいった方法であっても、それをずっと使っているとうまくいかなくなる。
それはどんなことにでも適用できる知恵だけど、この不思議な法則を「人の法則」として理解できたのはこのローマ人シリーズのおかげである。
すでに終了しているローマ人のシリーズだが、今度は文庫本で一から読み直してみようかという気になる。あるいは単行本を再び読むか。そんなことを考えたのだが、それが辛い機中の時間を少しでも忘れさせてくれたので、またまたこの本に感謝してしまった。