遠藤周作という作家はベタのクリスチャンなんだろうけど、その作品からは宗教につかっている人特有の臭さがないのが不思議である。多分宗教を自分自身の生き方指針のようにとらえているのだろう。宗教を他人に押し付けて自分を実際以上の人に見せようという魂胆やあらたな信者獲得による自分の貢献度をあげようという意図がないから、変な人だと感じないのだと思う。
その人が考えるイエスの生涯はどんなものか。聖書については普通の感覚で考えても、あるいは現代での生活を普通ととられていることを客観視したとしても、おかしなところがやまほどある。
いわゆる軌跡の話である。古代の人は現実とおとぎ話の区別がつかないバカな人なのかもしれない。そう思っていたのだが、ローマ史だのを読んで見るとそんなことは決してないのだと学んだ。いや、現代人よりもよっとどリアルな考えを持っている人もいるのだ。
だから、古代の当時の人でさえも疑いを持ったような聖書の内容を遠藤周作がどう考えているか。そこに興味を覚えた。
この本を読むとそれがわかる。なるほど、そういう理解なのかと。事実と真実という言い方をしている。物理的に起きた事実を記述したのではなく、イエスの意図はこういうことだったという真実を書いているのだ、という考え方である。それならば、工学を学んだぼくでもその理解を耳にしても拒否反応は起きないし、それを自分の軸として生きている人を尊敬することはできる。
遠藤周作は山本七平と同じように、ぼくにとっては尊敬できるであったのだ。もっとも、それ以外で尊敬できる宗教の信者という人を余り知らないのだが。
さて、内容である。この本は全編遠藤周作の考える聖書成立のベースになった出来事についての想像である。歴史的な背景、当時の政治状況、民衆の感情、人々の生活状況などを考慮して、新約聖書の元になったことはこんな感じではなかったのかという仮説がかかれている。
その真偽を判断することは不可能なのだが、ぼくの感覚では「ありえるだろうな」というところだろう。
物語が成立するには何らかの印象深い事実がコアとして存在するはずで、それが実際はどのようなものだったのか推理することは楽しい。言葉で書かれた物語は言葉で書かれるということから事実全体ではありえない。聖書に書いていることは全部真実だなどという人からは遠く離れていたいものである。
この本にもあるが、一つ重大なそして信念な未解決な疑問が残っている。それは最終章である。なぜ、当時のエルサレムには色々な救世主と称される人が何人もいただろうに、キリスト教だけが歴史に方向を与えるようなところまで立ち上がってきたのだろうか。それも、一地方一時代の熱狂ということで消滅せず、ローマを飲み込み現代にまで影響力を持っているのだから不思議である。その辺りの仮説もいくつか提示されているはいるが、著者も謎だと結論づけている。
遠藤周作さんに、塩野七生の『キリスト教の勝利』を読んでもらって感想を残してもらいかたかったなと思う。あるいは、山本七平との議論でもいい。
そんなことをぼんやり考えた。