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恐怖の存在

マイケル・クライトン
ハヤカワ文庫
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 ブックオフ・オンライン

 マイケル・クライトンが人間活動の結果による地球温暖化について反対の考えを表明する小説を書いた。しかも、CO2増加による地球温暖化論はある種の扇動だと切り捨てている。ぼく自身、昨今マスコミを騒がしている地球温暖化論はウソだということがよく分かってきたので、この本を楽しく読めた。読みながら、そうそう、と頷くことしきり。さすがにクライトンである。冒険やサスペンスといったハリウッド要素をふんだんに取り入れているにも関わらず科学を勉強した人ですら安心できる「温暖化論はおかしい」と説明するロジックをきちんと展開している。エンタメと科学とが同時に入っている小説はとてもめずらしいであろう。この小説、ぼくは一押しである。
 ただし、万人が楽しく読めるかどうかはわわからない。とくに、地球温暖化が「当然であり、われわれは地球を守らなければならないし、みんやでやればそれができる」と思っている人が読んだらどういう反応をするのかわからない。が、おそらく、怒るか、非科学的なデタラメだと主張し、クライトンやこの小説を虚仮脅すであろう。
 というわけで、この本の評価は、人によって180度ちがってくる。だからだろうか、この小説は映画化されていないんじゃないかな。(よく知らない)
 なぜ、人間活動に伴うCO2増加による地球温暖化論を否定できるのか。この小説では、小学校卒業レベルの知識があればわかるよう試みている。温暖化の証拠とされる都市の平均気温の上昇はコンクリートを多用することによるヒートアイランド現象であろうし、そもそも地球レベルの平均気温の変動は数万年という周期で起きているといった説明はいろいろな本で学ぶ事ができる。東京なりニューヨークなりの平均気温上昇グラフを見せて「地球温暖化」と主張すること自体は、今では誤りであることがはっきりしている説明である。二酸化炭素が増加しているとうハワイあたりの観測結果があるなら、場所によっては気温が下がっているという事実がある以上、地球温暖化とは関係がないということもできるのだ。頭を空にして、そういう説明を聞けば誰でも「あ、あれってウソなんだ」とわかる。それをこの小説の登場人物に語らせている。もっとも、主人公の一人は従来のマスコミ報道に洗脳されているため、そうだからといって簡単に寝返ることができないではあるが。
 この小説では、地球温暖化論を支持する人の代表として「セレブ」が登場する。地球を守れと口にするわりには、自分はプライベートジェットで移動しているような人たちである。まるで、GMの会長のような人種のモラルを醜いままえがいている。当然、そういう人は「悪役」である。少しベタ過ぎる。一種の勧善懲悪的なところが、この小説の弱いところかもしれない。
 この小説は普通に読んでも面白いが、ハリウッド的なところも多いので、SF小説として歴史に残るかどうはわからない。また、SF好きの人からの評価が高いかどうかもわからない(多分、低いだろう)。とはいえ、クライトンのモチーフは別のところにあるのだから、それはそれで仕方がない。面白いかどうかは別としても、この小説を一度読めばCO2増加による地球温暖化がペテンであるのではないかと疑うをもつはずである。
 ここで疑問がわく。地球温暖化論に反論する本は、色々な国で出版されいているようである。ならば、そういう地球温暖化論に対するアンチキャンペーンがあってもよさそうである。しかし、これまで一度もマスコミでそのようなものが報道されているところを見たことがないし、耳にしたこともない。なぜだろうか。日本でこの小説がどの程度売れたのはわからないが、パッとしなかったとしたら、政治が働いているのだろうかと想像してしまう。

 「いいこと」を人々に普及させるためには、その「いいこと」を分かりやすく説明することが必要だと言われている。最近ならば、言葉で説明するよりもマンガにしてしまうとか、アイドルを起用したキャンペーンを行うとか、論理ではなく感情に訴えるといった方法である。人々に「いいこと」の良さが分かってもらえない理由は、分かりにくいことが原因だというわけだ。「いいこと」は無条件に「いいこと」であるという考え方である。
 しかし、本当にそうなんだろうか。地球温暖化論に反論する本は今では結構な数があり、読んで見れば良書もいろいろある。そして、そういった反論として、クライトンの言いたいことを登場人物の冒険や成長を追うことで「学んでしまう」ようにこの小説はできている。だから、とてもわかりやすい方法である。これでだめなら映画しかないだろう。しかし、果たしてそれで人々は「分かった」のだろうか。
 分かりやすさを追求したからといって、その主張内容が相手に伝わる成功率が高くなるというわけでないのかもしれない。結局、人は「よいこと」と他人が思われていることを自分にとって「よい」のか「わるい」のかを、説明される以前に感じ取ってしまい、その感じ取った印象をもとに説明を理解しようとしているのではないのだろうか。つまり、相手に伝わるか伝わらないかは、その内容と相手との関係ではじめから決めているではないと思う。であれば、いくら伝えかたを工夫しても、ある種のムダであり、やりすぎなものだった、という落ちがつくかもしれない。
 このクライトンの小説を読んだ後でも、地球温暖化と闘っていくと思っている人がいるのだとしたら、地球温暖化論のトンデモさを多くの人に気付かせようというクライトンの試みは、そもそもが失敗することが決まっていたのかもしれない。

 それにしても、政治的な主張を小説という形で表現してくるアメリカの社会には感心する。同様の試みがこれまで日本であったのか、無かったのかは分からないが、エンターテイメントという意味合いでしか小説が存在していない社会では、こういう試みはどう評価されるのか知りたいとこである。が、結局作者の意図など無視して、人物造形がどうのこうの、トリックがどうのこうのということでしか語られないのだろうなという気もする。
 すでにクラインとンは鬼籍に入ってしまったのが残念である。今後の人の参考になるようなものを残してもらいたかった。

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