帰宅時の電車内で読む本がない。仕方ないので乗り換え駅の本屋でささっと選んだのがこの本である。初めて目にしたタイトルで、インタビュー本ような感じがしたので買った。帰りの電車では集中力を必要とするタイプの本はちょとしんどいので。
のっけから最近の茂木健一郎とは違うトークである。いや、これはぼくが非常に注目していたころの茂木だ。一途に「クオリア」を追いかけている研究者の匂いがする。言葉の端にもクオリアの探究への思いが読み取れる。あぁ、これは言い本だぞ。そう思いながら読みふけった。
読んでいたら「そうそう」と頷づくところが多いことに気がついた。そして「あれ、この話は以前茂木の本で読んだな」という箇所が現れた。例えば、絵画展に行ったときはお気に入りの一枚の前で1時間くらいずっと立って見るようにしているという話である。確か「頭のモードが切り替わるのには30分から一時間必要だから」という説明だった。
大分前の話だが、そんな説明を読んだあとぼくは素直にそれに従い、名画の前に30分くらいは立ち止まることにしたおかげで絵画観賞の良さを知ったのだ。この一例でだけで、ぼくは茂木に感謝しているし、この人の研究者としての態度が好きになったのだ。
今読んでいる本の中で再び語られたとしても、まぁ、本人の主張は同じものだろうから話題になるのは無理はない。それにしても、説明がぼくの記憶と酷似しているので違和感を覚えた。
最後まで読んだ後で、この本は単行本からの解題であることを知った。あぁ、やっちまった。この本、昔読んだわ。そう、ぼくが読んで感心したあの一冊だ。それだったのだ。最近やらと過去読んだ本を文庫本で買ってしまう。ただし、昔読んだ本であってもすっかり忘れてしまっているので「失敗」とはいえないのだが、なんだか損した気分になる。持っている本をわざわざ買ってしまったのだから。
ふぅ、とため息。しかしだ。もしここで文庫本として読まなかったら、この本は二度と読む事はなかったかもしれないではないか。自宅の本箱にかなりの本があるが、それはおそらくもう二度と読まないものだろう。その時間はない。だからといって捨てたりしはしない。持っているのである。自分の記憶というか、自分の過去を体現しているものだから、なにかいとおしさを感じる。何かのときに読み返せるようにと整然と並んでる。
文庫本ならば500円で買える。ならば、500円で「読むチャンス」を買ったと思えばいい。お金は本という物質に対して支払われているのだが、ぼくにとっては学びのチャンスに対して支払ったと思えばいいではないか。そう思ってしまえば同じ本が自宅に二冊あることに何の問題もないではない。二度も読む機会があった本ということだ。生きているうちに良い本を読めむという幸運は、お金を積めばかならず手にいられるわけではない。今回はそれが単行本価格で買えたののだから、喜ばしきこと。そう考えるようにした。
この本を読み返して思った。最近と過去とでは茂木健一郎の興味の先が大分違う。昔は研究者だった。クオリアを追いかけていた。今は対談王である。有名人の話を聞くこと、色々な人と知りあうことが目的のようだ。出版される本を読む程度だと、なんか最近変わってきたなぁという程度の違和感を感じるだけだが、4年くらい離れた本を読むとかなり違う路線の人になっていることがはっきりする。
なぜ変わったのだろう。おそらくだが、彼が追いかけていたクオリアの研究は、いわゆる「研究」という方法では掴めないと悟ったのかもしれない。そして従来の研究とは違う方法を試して現在に至っているのかもしれない。対談王となることが「研究」という従来方法よりもクオリアに近づけるのかどうか。ぼくはわからない。茂木健一郎はどんな考えで今のような探究形態をとっているのだろうか。興味がわいてくる。研究過程の中間報告として、そんな本を読んで見たい。