« ハプスブルクの旗のもとに | メイン | 英仏百年戦争 »

革命のライオン・バステューユの陥落

佐藤賢一
集英社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 bk1

 茂木健一郎の講義で佐藤賢一の対談についての話があった。雑談のなかでのちょっとした一言に近かった。なんでも、佐藤賢一と対談したときに、フランス革命についての話を聞いたそうだ。そして、その中で歴史を小説として書く理由について教えてもらったと。
 佐藤賢一は大学で歴史学を研究していたのだが、アカデミックな歴史の研究方法に限界を感じていた。歴史の出来事を人間社会の一種の普遍的な型としてとらえることはできないのではないかと思ったからだそうだ。例えば、フランス革命がどのようなプロセスで進んだのかを関係者の「個性」を無視して進めてしまうとそれはフランス革命を記述したことにならなくなってしまうかもしれない。登場人物の個性を出すと、歴史上一回切りのものになってしまうため、普遍性をもとめる学問としての意義が失われしまう。つまり研究にはならない。あれこれ考えた末、個性が歴史をつくった面を書くために「小説」という方法をとったというのだ。茂木健一郎の講義のなかでの話だっため、細かいところはぼくの勘違いがあるかもしれないが、大筋はこうだった。
 なるほど。塩野七生のエッセイにに、高校生だったかの授業でつかった歴史年表の背面に「所詮歴史は人である」と書きつけたメモを付けて懐かしくなったというものを読んだことがある。何十年たった今でもそう思っているということだった。塩野七生のローマ人などを読めば一目瞭然だが、ローマの通史がローマ人として現れる実在の人の「個性」によるものとして書かれている。それが理由で日本のアカデミズムからは無視されているのかもしれないが、塩野七生は紫綬褒章をもらっているし、イタリア共和国勲章を貰っている。歴史の記述方法として、また、イタリアの歴史を財産として日本に紹介した功績を評価されているのである。つまり、個性を全面に押した歴史の記述は十分に可能であるとうことだ。
 そんな思いがあって、とりあえず出版されたフランス革命の小説を読んでみた。意外なほど引き込まれた。これ、小説だ。ミラボーの心の内側など、歴史資料にどこまで残っているのは知らないけど、ここまで残っていないあろう。となれば、著者の理解した人物像である。さすがに学問としては無理がある。
 司馬遼太郎の作品が日本史学者の中でどういう評価を得てるのは知らない。が、小説であるということで、対象外になっているはずである。この著者も同様に歴史学者からの評価は「無視」ということだろう。
 ただし、一般の人からみれば大歓迎である。すくなくともぼくはフランス革命のことについて教科書を読む気はしない。が、佐藤賢一ならば読みたい。そもそも面白し、登場人物の人物像がどの程度「正しい」のかは別として、すくなくともフランス革命の成り行きについては終えることができる。年表にあることはマイルストーンとして正しく記述されているはずである。ある種、学研マンガのようなところである。
 今後何年かかけてつづくようだが、塩野七生のローマ人のように楽しみにしたい。
 

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.significa.jp/scienza/BlogMgrMt/mt-tb.cgi/700

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)