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神の子どもたちはみな踊る

村上春樹
新潮文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 BOOKS SAGA 長津田店

 なにとはなしに村上春樹の短編集を手にした。電車の縦吊り広告に村上春樹の新刊の紹介があった。それが無意識に残り、ぼくの手を動かせたのかもしれない。普段短編も村上春樹も読まないので、突然の思いつきは無意識の指令だろう。
 ぼくは村上春樹フリークではない。とはいえ、大学の頃に「ノルウェーの森」は読んだし、ダンスダンスダンスも好きだ。が、それ以後はただなんとなく読んだという程度なので、短編集があることすら知らなかった。
 で、この本の内容について。表題の一編は村上春樹っぽいものだった。だからといって好きに慣れるわけではない。オッサンが読んでワクワクするたぐいの話ではない。若い頃の生活が全く似ていないから、このお話はへんな話にしか思えない。こういう話に親近感をもつ人は、どんな生活をしていたのだろう。まぁ、理工系大学で勉強していたぼくには親近感が湧かないのである。
 ところが後半の「タイランド」「かえるくん」「蜂蜜パイ」という作品は、自分でもビックリしてしまうほど気に入った。読んでいると寂寞な気分がするところは村上春樹の小説の不思議な味である。そして、ナンセンスすれすれのファンタジーなところもそうだ。こういったお話に対してぼくは拒否反応を起こすのだが、村上春樹ならばなんとか読める。なぜだろう。
 「タイランド」は、アンニュイなオトナの物語である。たとえ人生がうまく回っている人だって、心の底は何かが蠢いている。そういうお話である。世の中には幸せな人なんていないんじゃないかと思ってしまうが、何も考えない方がしあわせなんだろう。
 「かえるくん」はナンセンス物語の見かけをした「ボランティア精神」の話である。だれの仕事でもないことを人知れずこなすことが大切だという寓話である。内田樹の評論でいう「雪かきをすること」である。世の中には人知れず目立たないけど決定的に大切な仕事をした無名の人がいて、そういう人は日に当たらないまま消えていったのだ。そういう寓話である。これって、普通に社会で生活している人ならばいろいろな場面で見たことがあるはずで、一人二人の名前を思い出せないようでは寂しい生活を送ったということだ。この小説でもそうだが、「だからお前もやれ」的な道徳の勧めではない。たんに、記述しているだけのお話である。名もしれない人に対する敬意を感じることも必要だろう。しかし、このような短編が最終的にノーベル文学賞に繋がるのかはわからない。というか、個人的には繋がらないと思う。ただし、こういう作品もある作家の下地の厚さは評価の対象になったりするのかもしれない。なんて、ことなのかもしれない。
 で、最後の「蜂蜜パイ」について。ぼくはこの作品で「お話とは何か」を学んだ。お話が人の生活で何の役に立つのか、なぜ物語が存在するののか。その必然性を納得できた。とはいえ、その解釈は著者の意図にはないぼくの勘違いなのだろうけれど。
 お話の目的は情報伝達と感情励起とがある。情報伝達に説明は入らないだろう。感情伝達は、それを聴いた人が「愉快」とか「怖い」と「腹が立つ」とか、そいういうクオリアを感じさせることが目的である。自分がお話しを読む場合、その動機はいわゆるエンタメであり、快感を求めることである。だから、お話を聞くことは食事をするのと同じ「本能的な欲望充足」のためである。とすれば、小説を読むってなんだろうな、の答えもそこにある。
 情報伝達の比重が小さい、あるいはほとんどないようなお話を読む理由は何か。読んだ後で一体何が得られるのだろうか。あぁ、楽しかった。それで終わりである。エンタメは楽しんでいる過程が目的だから、後に何が残ろうがどうでもいい。そういう態度が、お話が好きだということ。
 そこがぼくが小説や文学に対して疑いを抱く根源がある。本質的に、情報とからまないお話に耐えられない。むしろ損した気がする。ぼくはそもそもからして貧乏性で、お話の後で「賢くなったかどうか」を期待しているからだ。だから論説や評論やエッセイを読むが小説はあまり読まないできた。
 自分のお話嫌いの理由は、情報以外の効用を余り信用できないことにある。とくに、本を読む事が勉強することだと思い込んでいることに原因がある。この不幸は、子供の頃の習慣に原因がある。いわゆる読書習慣がない子供は、大抵そう思ってしまうはずだ。本を読む=勉強する。本を読む=それも遊び、と思えない。マンガを読む=遊び、だから、マンガ=本ではない。だから、小説を読むなんてのは、「子供じゃないんだからお話を聞いてもなぁ。」と自然に思い、むしろ小説をバカにしてしまう。本当に不幸なことなのだ。
 蜂蜜パイを読んでいて、あることに気がついた。小説を読む、いや、そもそもお話を読むという行為は、身の回りの世界で起きる出来事の意味を定めることなのではないか。意味という言葉が不適切ならば、「味を決める」でもいい。その出来事が自分にとってどんな関係を持っているのか。そのタグ付けをしているのだ。蜂蜜パイの物語に登場する女の子の行為がそれを示しているではないか。
 この話は単純である。とくに、おかしなトリックはないし、押しつけがましいメッセージもない。小説の中で女の子が小説家の男にお話しをせがむ場面がある。そのお話は、どこか別の場所で起きたおとぎ話ではない。今この瞬間自分の目の前の出来事についての「解説」なのである。「どうしてあの熊はひとりなの」とか、そういう子供っぽい問い掛けにたいする答えとして「お話」を用いている。考えようによっては、これはある種の神話づくりなのではないか。
 あの熊は何をしているの?という問いに、男がいろいろとお話しを考える。お話というよりも、ある種の童話をその場で生み出し、話して聞かせている。その話に納得すれば、今そこにいる熊の過去と未来と、そして自分との関係が明確になる。関係という、物質ではないものに「タグ」が付けられたおかげで、その関係を頭で理解し記憶できるようになるのだ。しかも、その関係についての説明には教訓があったり、感情を揺さぶる物語があったりする。そのクオリアが生々しければ、それだけで素直に感心したり、喜んだり、同情したりしやすくなる。ひいては頭に入りやすくなる。となれば、お話にすることはある種の記憶術であり、目の前の現実の認識方法とえいえる。説明として物語を使うことは偉大な発明なのだ。あるいは、それが言葉の真の機能なのかもしれない。
 動物園に行って熊を見る。そのとき、ぼくなら何を思うのか。普通の人は何を考えるのか。ある人は熊の行動を見るし、毛並みや泣き声を「教科書で読んだ通りだ」という照合をする人もいる。単に驚く人もいる。人それぞれだろう。ただし、色々思うことがあろうが、それはその人がそのようにして世界を認識している、ということが同じである。熊を見て何かを感じれば、それが熊を見ることによって世界の味を感じたのである。そして、そういう形で人は世界を頭に取り込んでいく。

 お話が好きな人は、世の中との折り合いは上手になるだろうし、あるいはうまくいかなくても一人で納得した世界に住んでいけるのではないかと想像したりする。これも、子供の時に身に付けるべき能力だろう。まったくもって、子供の頃に本を読めた人は幸せだなと思う。

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