養老孟司の新刊が文庫本で発売されたので、早速読んでみた。内容は講演をまとめたもの。テーマはいかにして都市化・意識化から距離をおいて生きるのか。そのためのアドバイスである。著者が昔から一貫して主張されている脳化、都市化の問題を普通の人でもすんなりと耳を傾けられるようなやさしい語彙で話をしている。養老孟司の講演はこんな感じのものなのかと想像すると、一度は聴いて見たかったと思う。(さすがに、もうあまりされないだろう。)
全部読んだあとで気がついた。この本は単行本を解題して新潮文庫にしたものだ。ということは、既に一度ぼくは読んでいる。あの本だとハッと気付く。手入れの文化の本だ。読んだのは4年くらい前だから、この読書メモをつけはじめる前だったかもしれない。
単行本でじっくりと読んだため、本書で指摘されたことは自分のなかに取り込まれている。養老孟司のいうことは自分に取り入れようと努力した結果、それなりに普通の人と考え方が違ってしまうくらいに身についたと自分では思っている。養老孟司のアドバイスを自分の行動に反映させると周りとの調和が乱されることがあるのだ。ぼくが勘違いしているのか、うまくできていないのかはわからないけれど。
ベランダに鉢植えの花を置き、それをなにとはなしに見るようになった。天気や時間帯によって信じがたいくらい綺麗に見えることがある。慣れない手でプランターの土いじりを初め、虫と格闘したり肥料に頭を悩ませたりしはじめた。歳を取ったことによる心境の変化だと周りには説明していたが、この本の最後にあった「人工物ではないものを一日十分以上みること」というアドバイスに反応してみたのだ。読んだことを実践してみた。すると、人生に深みがでてきてきたような気がする。まったく不思議である。単に花を眺めているだけなのに。現代ではあまり省みられないそういう知恵はぼくにとって貴重である。先輩からアドバスを貰いたいところだけど、不幸なことにぼくには友人関係でも学校関係でも会社関係でも「先輩」という人はない。普通は仕事の上でそういう人に出会うものだが、幸か不幸かぼくは独力でやってきたし、この先もそうみたいだ。だから、養老孟司の本は、ぼくにとっての先生であり先輩の言葉になっている。
「だって、しょうがねぇじゃねぇか」という説明を受け入れる態度がないと、自然はいらだたしい面ばかり見せてくる。東京に住んでると「美しい自然」などにはメッタにお目にかかれないから。
歳をとって体調がわるくなるのも仕方ないがない。そんなことも自然の一部。それを当然として受けれられるかどうか。自然について考えていくと、ある種の仏教的なものに近づくような気がする。
意識ばかりが充満している世界に日々生きていると、なんとも心苦しい。混雑した駅でも、にぎわう繁華街でも、人がたくさんいるオフィスでも。ストレスは不幸だから感じるのではなく、人間関係から発する匂いのようなものではないか。人間関係は「意識的」なものの最たるもの。それを自然を相手にするように、まぁしょうがねぇかという風に流せるようになれれば、いわゆるスストレスから解放される。考え方をかえると、意識に由来する感情的な苦しさは本人がだけがもつ「勘違い」と言えそうだ。寝ているときは忘れているのだから、忘れれば忘れたで何も問題はないはずである。
脳でも意識でもそうだが、こういうことは身体を動かしていない人が悩まされやすい。会社で会議をしながら一日を過ごす、パソコンのモニタの前に座り続け気がつくと日が暮れているような仕事をしている人には、養老孟司の言葉がある種の薬になるのではないか。ピンとくる人もいれば来ない人もいるだろう。もっとも、ピンと来た人は果たしてその後スムーズに生活しているかといえば、ピンとくるレベルによるだろう。あまりにも理解してしまったら、しばらくは不幸になるはずである。ちょっと反語的だが。