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街場の教育論

内田樹
ミシマ社
お勧め指数 □□□□□ (5)
購入店 八重洲ブックセンター

 この本は二回読んだ。発売直後に読んで、年末にもう一度。最初に読んだとき読書メモをすぐにつけなかったたら、頭の中にあるこの本の印象がぼんやりしてきてしまった。だから大晦日にもう一度読んだのだ。この本の印象が薄いからではない。内容は刺激的で、ぼくは身につまされて悲しくなったくらい印象深い本である。それでも印象がぼけてしまったのは、この本の内容を無意識に忘れたかったからだと思う。それくらい、自分の嫌な面が醸造されたメカニズムをずばりと解説してくれている。
 教育をビジネスの言葉で語り、教育機関をビジネスの運営するのは間違いである。そう内田樹は主張する。もしビジネスとして教育をしたらどうなるのか。ほぼ教育というものが存在できなくなり、関係者おろか国民すべてにとって得にならない悲惨な結末を迎えるだろう。なぜか。
 教育にはそもそもが時間がかかり、その効果は定量的にとらえることができないからだ。そもそもそういうものを対象としてビジネスは成立しない。だから無理をする。すぐに結果を求めるマインドをもって、投資と結果の定量的関係を常に注意しながらの日々の作業として人を教える事になる。人にものを教えた経験があれば、こんな方法で先生は成立しないと思うだろう。ビジネスとうい考え方は教育とは全く無関係、いや真逆のことを行うことになる。だから、そんな教育は絶対に失敗すし、ビジネス側も失敗する。
 こういう趣旨の本である。また、最近はやりのビジネスとしての教育の失敗シナリオを提示し、過去の事例を思いださせてくれる。

 こんな趣旨の発言をビジネス経験がない人がしたら、ぼくは半分納得半分疑いの気分になるだろう。しかし、内田樹は教職に着く前は今でいうベンチャー企業で働き、ビジネスのタームで語ること行動することを実施し、そして一定の成功を収めた経験をもっている。普通のサラリーマンや大学教授がもつ視野が半分しかない人の発言ではない。この本は、事実を教えてくれているのだから。
 この本でぼくが一番苦手とする箇所は、現代の若者の行動性向についての解説である。なぜ会社に3年しか勤められないのか、なぜ自分探しなどするのか。その根底にあるその世代の価値観を消費経済の世界で人生に登場してしまった子供の悲劇として語ってくれている。この解説は『下流思考』に詳しく書かれている。期せずして自分がその世代のトップバッターであることを思い知るのは実に嫌な気分になるが、反省してみると自分に当てはまることが多いので事実を語ってくれているのだろう。こんなことは、自分で思索したところで気付くはずはない。
 この本ではさらに、最近の若者が口にする「やりがいのある仕事」についてとその発生メカニズムについての解説がある。なぜ、そういうものを求めてしまうのか。いまま何人かの人が語っているものを聞いた事があるが、内田樹の解説が一番良い。心底理解できるものである。この解説は感心するを越えて感動的である。自分の心の底にある考え方の基準が著者によって言葉にされてしまった。そんな驚きである。一方で、できればそれを読みたくは無かった気もする。欠点をずばっと言われたようなものだから。こんなことが理由で、この本について、良い本だと評価する一方で忘れてしまいたい思いが無意識にあったのだと思う。
 
 「やりがいのある仕事」とは何か。それは、モジュール化された仕事であり、自分に割り当てられた単位の決裁権が自分にあるものだ。そして、その成果全てが自分に排他的に帰属するもの。そう、この本では解説されている。いわゆるクリエイティブな仕事と呼ばれるものはこの条件を満たしている。裏を返すと、決裁権が自分になく、かつその成果があったとしても関係者全体のものになるものは該当しない。たとえ自分が行動主体としてがんばってもその成果を独占的に主張できないものは「やりがいのない仕事」になる。実に明解な説明である。チームでの行いに対してももある種の成果独占権が主張されていることに注目したい。要するに、一人でやれること、結果がすぐにでること、何よりもまして、自分の世界は自分のものだと主張できる仕事が若者が求めている仕事なのである。
 社会における仕事のなかでそのような性質を持つものはレアであろう。いわゆる芸術家くらいなものである。そういった仕事はつこうと思ってつけるものではない。ほぼ全ての人は失敗するはずである。それに、不思議なことだが、そういう道の人は職業選択の段階においてそういう仕事を既にしているのが普通なのである。学生の頃からそういった種類の仕事をアルバイトしているような人は実際たくさんおり、何を職業にするかなどと迷う段階がなかったりする。芸術家はある種の倶楽部であり、本人の努力でそのメンバーになれるわけではない。
 自分で何をするのか決められ、その成果は自分で排他的に独占できる。こういう仕事はそもそもが「モジュール化」されている。モジュール化とは周りとのリンクが少なく、また機能が明確に定義されている。だから仕事をする人は誰でもよく、人材の交換は簡単になる。
 モジュール化された仕事を求めるのは誰でもやれる仕事を選択することになる。そもそもが、余人を以て代えがたい仕事ではない。また、うまくいった場合の成果が独占できるのならば、失敗したときの成果も独占することになる。つまり、失敗したらその場で破綻してしまう。なんといっても「交換」はいくらでもいるから、その場で立ち去ることになってしまう。だから、モジュール化された仕事は非常にリスキーなのだ。

 やりがいのある仕事の意味がぼくの世代前後で変わってしまったようである。以前は、やりがいのある仕事とは喜んでくれる人が多いものだった。自分の知らない場所で知らない人が感謝してくれるものだった。今は自分に決裁権があり成果を排他的に独占できるものである。ぼくはこの両者の意味や良さが直感的に理解できるので、ちょうど過渡期の世代なのだろう。
 内田樹に指摘されなければ、後者の意味で「やりがいのある仕事」を定義してしまいそうである。誰が喜ぶのかなど全く分からない仕事であっても、自分一人で進められるものならばやりがいのある仕事ではないか。そういってしまいそうである。今の大学生ぐらいならば、やりがいの意味は後者だけになっているはずだ。
 前者の意味でのやりがいは、なぜよいのだろうか。内田樹によれば、それは「生き残る可能性が高まる」からだそうだ。誰のためにやるってるのかよく分からない状態であれば、自分のした事は直接自分のためにならなくても「自分たち」のためになっているはずである。ならば、他人の仕事も自分のためになっている。もし大勢でそういう仕事をやれば、自分の成果がぱっとしない時期があっても周りの人の恩恵に預かれるだろう。つまりは、生き延びる可能性を高まるだろうというのである。
 なるほど。つまりは、なぜ働くのか、その目的に関わってくるのだ。なぜ働くのかといえば、現代ならば自己実現のためであろう。しかし、しばらく前までは生き延びるためであったろう。その辺りの感覚のずれがある。そこでピンとくるものがある。
 モジュール化された仕事といえばクリエイティブな仕事だけではない。今社会問題になっている「派遣」も機能からみればその一つである。ジョブ・ディスクリプションが定義されているからこそ交換可能な仕事であり、だからこそ「派遣」という形の仕事にできる。必要なときは人を増やし、必要なくなれば人を減らす。これは、モジュール化の結果なのである。そもそもクリエイティブな仕事も同じで、ほんの一握りの先頭グループ以外の人の生活は不安定であり、生活水準はサラリーマンよりも低いだろう。幸せという言葉の定義として何を採用するかで、その仕事の評価が関わるが、クリエイティブな仕事は生き延びることは相当難しいことは確かである。クリエイティブな仕事に人気が集まる理由は宝くじと同じで、当たったときがでか過ぎるからであり、それに群がるほぼ全ての人は単に損するだけだというとも同じであろう。夢があるかもしれないが生き延びるには損である。

 この本を読んで、自分の方針について揺らいでしまった。というのは、「さぁ、みんなのためにやろう」と気分を入れ替えて仕事をしたとしても、周りの人もそう思ってくれないと他人に食われるだけだろうと思うから。周りがジャイアンばかりだったら、他人のためにがんばれば即死だろう。これが単に被害妄想ならばよいが、若い人だけならば妄想とは言ってられない。50歳以上の人がいないと、脱モジュール化は行えないかもしれない。つまり、今のままだと不幸になると理解できても、社会がモジュール化に向かった段階では個人にはどうにもならないということだ。逆に生き残りのためには後者の道を選択するしかないかもしれない。

 こんな不幸な考え方がなぜ発生したのだろうか。なぜクリエイティブな仕事やモジュール化できる仕事が望まれるようになったのだろうか。内田樹は受験とバイトにあると指摘する。そもそも、どんなに仲が良い人同士でも、受験とバイトは助け合いようがない。これらは、自分ががんばればがんばった分だけ成果があがり、自分の成功は自分のものであり、自分の失敗は自分のものであることがはっきりしている。誰かの失敗と自分の結果とはあまり関係がない。
 受験とバイトが世界のあり方の見本であるとして人格を形成してしまった人に、助け合いなど求めてもムダである。なぜ自分が働いたのに他人にバイト量が振り込まれることをよしとするはずはないし、他人が勉強しなかったことの付けが自分の受験失敗という形で現れる可能性を喜ぶ人がいるはずもない。この種のことは感情的なもので、勉強したり諭されたりしても納得することはできないものである。だから、もうダメなのである。

 最近、自分の行動を観察していても、他人への信頼が持てなくなりつつあることを前提としていることに気付く。だから、他人のために何かをせよ、ということに行動を起こせないでいる。頭では内田樹の言うことを理解できて本当にそうだなと思っても、感情の湧き上がりかたは「なぜ、自分の仕事ではないことをして損をする必要があるのか」と自然に疑問に思う。その一番の理由は、そもそも他人が信用できないから、である。
 これって、治り得るのかどうかぼくはわからない。

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