大前研一さんの本はずいぶんと読んだ。ここ10年くらいの間に、一般に入手できるものは読み倒した。初期の本はビジネス書としてベストセラーだったから、ブックオフの100円コーナーで買えるものが多い。ブックオフで手に入らないものはアマゾンマーケットプレースで、洋書もアマゾンで注文した。もちろん新刊が発売されればすぐに購入して読んだ。大前研一さんは自らの著書は200冊以上あると発言されているが、ぼくが探せたのは70冊くらいだった。もちろん、全部読んでいる。
これらの本を読んだからといって、その内容が全部分かったことにはならない。なんでもそうだろうが、わかったからといってできるわけではない。ビジネスマンでなけれは商売にも関係してないぼくには、ビジネスマンの心得について想像するしかない。大前研一さんのような目で社会を見渡せる位置に入る人はほとんどいないのだから、大前研一さんの読者のほとんどは、読んだところでそれを使えないはずである。ある種の畳の上の水練で終わっているのではないかと思う。
論理的思考や問題解決などのビジネススキル、ボーダレス経済、はたまた、国家戦略問題なでを扱った著書を読むことは、こうていってはなんだが、娯楽でだろう。なぜなら、大前研一さんの著著の場合、読者も大前研一さんの視点に立てることができるが、そんなことはほとんど現実離れしているから。義務教育終了程度の論理力と語彙があれば、大前研一さんの言っていることはわかる。とても簡単なことのような気がしてくる。まるで戦国時代の合戦の様子を上空から眺めようなものだ。これが娯楽でなくてなんであろう。
大前研一さんは、ご自身の著書が売れたのに人々がその本によって変わらないことを嘆くことがある。しかしちょっと考えれば、変わらないのは当たり前なのだ。素晴らしい音楽に感動したからといって、みんなが楽器を演奏できるようになるわけではないだろう。ビジネスだって同じで、問題解決方法を知ったとしても、身体を使って自分の問題を解くことには練習が必要だ。言葉によって理解できたことがそのまま自分に能力として組み込まれるはずはない。誰かがどんなに面白い本を書いても、またどんなに啓蒙的な本を書いても、すぐに応答があるわけけがない。その辺りをどう理解されているのか、質問したいところである。
これまで何十冊もの大前研一本を読んできた。今まではそれらに反論するところなどなかったし、そうしようなどと想像すらできなかった。ある種の神に近い対象だったといえるだろう。ぼくはひたすら勉強し、自分も同じ見晴らしの場所へ上がって行きたいものだと望むだけだった。
が、実に驚くべきことだが、この本を読んでいてぼくは反論したい気持ちを憶えた。そういう箇所がいくつかあったのだ。「いや、違うのではないか」と言いたくなったのだ。特に最後の教養についての章については、「それは全く違うだろう」とクレームを着けたくなった。こんな気持ちになったのは初めてであり、困惑すると同時にうれしい気分ににもなった。大前研一さんの本を読みはじめてから初めて自分が「成長」したのではないかと実感したのである。もちろん、ぼくの反論は全くの誤りである可能性がある。それを承知しても、大前研一さんに対してただ単に平服するよりない状態から自分は脱したような気がする。
この本の内容は、大前研一さんの従来の主張からの逸脱はない。日本人の集団知能はどうしてここまで低いのかという問題を定義し、低金利時代におえる銀行預金、死ぬまで続く貯蓄傾向、場当たり的に感情的に反応する外交、それらを煽るマスコミ、おっさんでしかない政治家の行動などについて具体例を示している。そして、そういう風潮から抜け出す方法の提案を行い、大前研一さん自信で行っている実験の結果を紹介している。こういう部分を読んでいると、自分でも簡単にできそうな気分になってしまう。さらには、諸外国の新しい動きと、その先にある10年後の未来予想図を提言している。大前研一さんの本でこういうことが紹介されると、真似っこビジネス書がいくつか出版され、テレビでは評論家が自分のアイデアのような顔をして語りだすというところもきっと同じだろう。
大前研一さんは不思議なくらい凄い人であることは、今現在でも変わっていない。だからこそ、今でも諸外国からのアドバイザー依頼が途絶える事はないのだろう。
ぼくも大前研一さんの提言に従い、いろいろと勉強したり、行動したりした。英語・ファイナンス・ITについては一通り勉強したし、リーダ論についてもいろいろ著作を読み、今できることとして自分にリーダー的な行動を取るような試みを仕事のなかで試してみた経験がある。
しかし、あるときばったりと辞めた。興味がなくなったわけでも、大前研一さんの説く方法の有効性に疑いをもったわけでもない。理由は単純で、結局ぼくは経済活動を「面白い」と思わないのだと分かったからである。人の命はさほど長くないし、日本のために自分があるわけでもない。自分が面白いとも思わないものに、なぜ自分の人生を賭ける必要があるのだろうかと当たり前のことに気がついたのである。それ以後は、大前研一さんの発言は日本の社会に足りないところを知る上でのデータとする程度に取り込んでいる。ぼくはぼくの仕事をするればよいと思っている。
大前研一さんの発想は、日本の普通の生活者の生活レベルをよくするためのものである。発想には何らかの価値軸が必要で、それを究極の目標として問題可決を行っていく。大前研一さんの話では、最後に全部「経済」になってしまうのである。
戦前の日本と比較すれば、現代日本の生活は比較にならないほど恵まれている。たいした生活ではないやと思っている人の生活であっても、諸外国の大半よりは遥かに恵まれている。だからもし、現在の生活のままでいいと思っていたとしても、ボーダレスワールドのなかで今の日本の位置をキープするには経済を今以上に拡大させていく必要がある。
こういう考えがあるのだろう。だから、1にも2にも経済なのである。
確かにそうでなのかもしれない。現在の生活レベルを維持するには、経済活動を活発にする必要があるのかもしれない。そして、みなが「リーダー」として高給をとれる仕事をしなければならないのかもしれない。
しかし、だからといって、ぼくは生活レベルを維持するために生きているのではない。現在の日本の状況は世界史のある状態の中で、そしてこれまでの日本人の活動の結果としてある。それには感謝するとともに、敬意を評している。しかし、それと何のために生きているのかという個人の究極的な価値観とは関係しないとぼくは思う。
経済は大切である。まったくそうであるが、ぼくは金利が5%だの7%だのということに常に注意を払い、どっちに投資するのかなどを考えるつもりは全くない。それは金利という数値の意味するところが分かっていないからではない。73を金利で割った数値が、投資した資金が倍になるまでの年数であることくらい知っている。しかし、10年20年たって倍になる喜びよりも、今自分にできることをする方に時間を投資する。それは借金をして車を買うための理由付けではない。金融について感心をもったり、勉強や実施のために時間をつぎ込んだりすることが「もったいない」のである。もっとやる事がある。5%くらいの金利ならば、ぼくはその時間で本を読むか、音楽を効くなどに時間を使いたい。そういう意味である。
もちろんこういう発想がでてくるのは、日本が今のような経済状態にあるから。それは承知している。とはいえ、ならばそこで何をするべきかという問題はその状態を維持するためにあるのではないと思う。現在の生活レベルを維持したところで、人は確実に老いて死ぬのだ。
この視点からみて、この本の提言にはいくつか反論がある。
例えば教育問題については、大前研一さんの提案は的外れである。ぼくは内田樹さんの提案をとる。骨の髄からのビジネスパーソンである大前研一さんに、教育はできない。大前研一さん自身は社会人向けの学校を開校しており、それなりの成果を得ているのだろうけど、日本人全部がそんな人になる必要はない。
ぼくが最もおかしいと思ったのは、21世紀の教養である。そもそもからして定義がおかしい。時間や場所という制約を越えて人に価値をもたらすものが教養と言われるものであろうと思っているから、「YouTubeは次になにをやるのか」とか「Googleはどうなるのか」、「アフリカのエイズ対策何をすべきか」、「環境を守るために何をするべきか」という話題について発言できることを教養と呼ぶつもりはない。それは時事問題でしかない。大前研一さんのおつきあいのあるセレブや世界企業の偉い人たちがそのようなことについて興味をもち、雑談のようなときにこういう話ができないと相手にされないと教えてくれている。しかし、YouTubeやGoogleは時間的は進化はバカみたいに早いし、環境にも大きく影響されるし、そんなものを予想したところで「的外れ」でしかない。ましてや数年たてばどうでもいいゴミみたいな話題に成り下がるであろう。要するに、世界のセレブやトップ経営者が興味を持っている事が教養になるではない。なのに、大前研一さんはそう言わない。
そもそもgoogleがどうなるのかなど、セルゲイ・ブリンにも分からないだろうし、技術屋でもない人の噂についての議論など、時間を捨てること以外の何のもでもない。そういう勘違いがセレブやトップに蔓延しているのならばそれはそれで構わないが、自分の人生をそういう人に合わせて捨ててしまうことはないだろう。結局、人の方向を見つめるだけで自分についてを見失ってしまうというよくある例の一つでしかない。
大前研一さんの主張は一貫している。だから、ある程度本を読めば「またか」という内容ばかりになる。実際この本も所見であるといえるところはほとんどない。
それでも社会に氾濫する情報を自分で処理していく方法を実例から学べる。だから今後もぼくは読者でありつづけるだろう。ただし、今後は反論を抱くことも多くなるのだろうなと思う。