この本はしばらく前に読んでいて、この読書メモブログにエントリーも書いている。それなのにすっかり忘れて新刊でこの本を買ってしまった。内田樹さんの本に引用されていたから無条件で買ったのだ。まったく情けない。悪いクセがついたものである。
とはいえ、尊敬する爺さんたちたちの本だから何度読んでもいいだろう。それに元旦から読むには縁起がいいではないか。お二人は、ぼくにはまったく近寄れない高い高い山の頂上におられるお方。そこではどんな思索の世界が広がっているのだろう。一市井の人であっても興味がある。それに、達人同士の対話からもひょっとしたら学べることがあるかもしれない。
白川静といえば漢字の偉い博士。不勉強なぼくでもそのくらいは知っている。逆にいえば、それしか知らないのだけど。すっごく偉い人だ、では一昔前の高校生の解答だな。
この本のテーマは漢字について。対談だからしばしばテーマから脱線し、興がのってくると何をはなすのやらわらない。そこが面白い。とはいえ、話題は対話する人たちの興味の範疇を超える事はない。このお二人のお話ならば、さしずめ日本文化、あるいは日本史の根っこにある日本的なものに話は収斂するはずである。事実、大和朝廷、弥生文化、縄文文化と遡っていき、アイヌについても語っており、賑やかな日本文化の語らいになっている。
こういう広がりをもつお話を味わうには、日本史についてきちんと学んでおかないといけない。ぼくはその素養がないから、残念な気がする。今からでも遅くはない。日本史をしっかり勉強しよう。そうすればこの人たちの話は、もっともっと面白く読めるに違いない。
次に漢字の話。漢字は中国から来ている。ならば漢字を学ぶ前提条件として、古代の中国の歴史について知っている必要があるだろう。殷ってなに?。そうなってしまうと、どんなに面白い本だと推薦したところで、つまらないという感想をもつだろう。
そこまでひどくはないけれど、ぼくは(というかたいての人は)中国史について多くを知ってない。普通の人に学者を期待しても仕方ない。ただし例外はある。例えば三国志に夢中になった経験があれば、それが小説であれマンガであれドラマであれ、ぼくよりは大きなアドバンテージを持っている。であれば、この本を面白いと思うはずである。
情けない話だが、ぼくは論語を通して読んだことがない。断片的なフレーズならば2,3知っている。日本社会に生きていれば耳にするから。しかしその程度だ。こうして考えると、小学校中学校高校でいったい何をやっていたんだろうか、と我ながら情けなくなる。
日本人の考え方の根っこには「言霊信仰」があり、それが日本文化の方向性を決めてきたらしい。井沢元彦の著作を読んで少しは知っている。その言霊は音声である。同じような発想が古代中国にもあったみたいだ。言葉を漢字で表現し、それを神に捧げることで祈祷する。その紙を入れる箱が「サイ」である。
ぼくにとっての白川静はこれがすべて。ここに梅原猛がはいってきて、元旦の午後を楽しく過ごせた。