最近の茂木健一郎さんからは、考え抜かれた話を引き出せそうもない。もう、伸び切っている感がある。だから正直期待していない対談だった。しかし、思いのほか甲野善紀さんが話を引っ張ってくれ、面白い方向に転がった。読みごたえは十分。
甲野善紀さんの趣旨は以下のようなものである。
言葉は必ずシリアルな表現になる。何かを表現するためには単語をつなげていく必要があり、それを聞き取る方も時間の順番に受け取けとる必要がある。言葉で身体について表現する場合でも、頭で考えたものを表現する場合でも必ず時間的にシリアルなものするよりない。これが言葉の限界である。
しかし、身体の使い方には、本質的にパラレルなところがある。手の動かし方一つとっても、一つ一つの部位を順番に動かしていくわけではない。多くの筋を「同時」に動かしているのだ。
だから身体の動きを言葉で表現することは難しい。言葉でもって思考する「意識」も同じようなこところがる。だから、意識で身体の動きを把握することも難しいのである。
難しい動きを体得するさい、簡単なものから難しいものへと練習することが一般的である。これは身体の動きだけでなく、頭で考えることもそういしている。その理由は意識が直接指令をだして行うにはそうするよりないからであろう。
しかし、実際問題、あの種の身体の動きは、簡単なものから難しいものへという学習方法では体得できない。つまり、量をこなすことで質に転化することが実質ないものがある。世の中にはそういう性質を持つものが多くあり、その多くは「同時並行的に」何かをする必要がるものである。こういうことを、多くの人に理解されてないのではないか。
以上、勘違いがあるかもしれないが、ぼくはこう理解した。これは言葉の表現に対して、身体側から境界線を引いたのである。身体であっても脳であっても思考であっても、本質的にパラレルな処理をする必要があるものを論文で表現することはできないのだといっている。それは、茂木健一郎さんへの問い掛けのように思える。
この挑戦にたいして、茂木健一郎さんははっきりとした応答を示してない。なるほど、という程度である。あるいは、「参考になります」とか「そうか」と言ったりして終わっている。
もちろん、茂木健一郎さんにとっては、いろいろ考えるヒントにはなっているのだろう。けれど、対談なのだからきちんとその場で「受ける」必要があると思う。両者は知り合いだから長い時間をかけて考えたあとに言葉を交わすことができる。そのほうが良い結果となるかもしれない。しかし、読者はそうはいかない。その場でないものは、永久に分からない。
売れっ子だから仕方ないのだろうけど、茂木健一郎さんの本では、読者の存在が希薄になっている。仕方ない事とは言え、がっかりすることが多くなっている。