歴史を歪めることは可能なのか。そもそも、歪んでいない歴史などあるのか。
ぼくはそんな興味からこの本を手にしたのだけど、そういう視点で歴史を語っている人は一人もいなかった。全員、「正しい歴史がある。ただ、それは書かれていないか、だれかが当時のだれかに都合がよいようにフィクションとして書かれているのだ。私は正しい歴史を探している。」こういう発想が根底にあるようだ。対談相手の時代は古代から現代までと幅広いことから、扱う時代による資料の豊富さとは関係なく、みな正しい歴史を追い求めているのだ。
学者は文字として残っていることを「真実」と受け止める。あるいは「事実」として作業を進める。とくに、日本史の専門家はそうだ。だからおかしな結論になる。梅原猛の論のように、一般の人が読めば「なるほど、そうかもしれない」というものがあっても、学者は一笑に付すような態度にでることができる理由は、文書ではそう書かれていないから、であろう。
そういう学者たちと闘っている井沢元彦さんならば、そもそも正史は歪められているのだと主張するのは当然である。正史にはない事実を求めている。そういう態度にぼくは魅かれるし、だからこの人の本は好んで読んでいる。
だけれども、最終的には「歪められていない歴史」などは表現できないとぼくは思っている。つまり、参加した人の数だけ「事実だった」ということがあってもおかしくないと思っている。それらに齟齬や矛盾があっても、絶対的に正しいものが存在するはずはない。そう、芥川龍之介の『薮の中』になる。
現実は多数の事実の組み合わせである。構成要素は天文学的に多い。ということは、ある歴史の流れというものがあるとしても、それは見かけでしかないということだ。真実があるのではなく、そういう風に見えるということだ。
歴史を書くということは、結局は誰かの視点で見えたものを文章で残すことになる。ならば、それは歴史ではなく見えたものである。違う人から見れば違うように見える。だから、正しいものなどはあり得ない。
だれかこういう主張をしている歴史家はいないものだろうか。