秦剛平先生の新刊がでたので迷わず購入する。この一連のシリーズは、朝カルの講義が元になっているらしく、どの本のあとがきにもそう書いていある。チャンスがあれば是非講義を直接聴きたいと思っていたのだが、金曜日の講義ならば上手に年休をとることで受講できることに気づき、昨年無理してとってみた。そのときの講義ノートがベースになってこの本ができているようだ。これまで秦先生の話は本で読んでいただが、この本の内容(旧約聖書外典)は、本よりも講義の方がおもしろかったと判断する。うん、だから無理して講義を聴いてよかった。だからといって、この本がもうひとつというわけではないのだけど。
それにしても、現代でも西洋社会の根底にある聖書の話は、ほんとうに信者に都合がいい話しばかりで、知れば知るほど困ったものだとこぼしたくなる。この本の範囲は、旧約の外典だから、キリスト教の人、例えばブッシュ元大統領の行動にはあまり影響しなかったと思いたい。とはいえ、旧約についてもべったりと読み込んでしまうキリスト教徒は今でもたくさんいるし、信仰のためなら他人がどうなろうとも問題ではないという人も大勢いるんだろう。
ダニエル書の中に、信仰が篤いから処刑のために炎燃えさかる炉のなかに投げ込まれても死なないという話がある。聖書というのは全編に渡ってそういうたぐいの話ばかりである。人の生き死には必ずしも論理的な説明がつくわけではないが、いくらなんでもなぁ。これらの話が書かれた時代は中世よりも前なのだから、現代の科学と同じくらいの説得力があったのだろうと想像できるが、現代社会に生きている人にこれを持ち込まれても困ってしまう。現代人のほとんどは、たとえば携帯電話のソフト・ハードにつてはそのメカニズムを全く知らないのだけど、それでも便利におもってつかっている。メカニズムがわからないのだから、そういう人にとっては単なる魔法の箱でしかない。それでも、それが当たり前だという顔をしてつかっている。聖書に書いていることも、それが書かれた当時には、聖書の世界観で世界が動いていると理解して生きていたのだろう。わからないで受けれいているという面をみれば、それは現代人も2000年前の人も中世の人もかわらない。
これまで多くの人を魅了してきた?聖書をつらつらと眺めていると、良い本の条件ってなんだろうかと疑問になる。本は結局のところ言葉である。言葉なんだから事実ではない。とすれば、言葉で述べられたことは「情報」になるか、感情を動かす「詩・物語」になるかかのどちらかの形で人に作用する。過去の出来事、現在の出来事、教訓、命令などは情報である。叙情詩、叙事詩、小説は感情を揺さぶるものである。この指標で判断するとしたら、旧約聖書、とくに外典の価値はどのようなものか。
現在において聖書が提供する「情報」にあまり価値はない。とすれば、詩や小説とおなじような「感情をゆさぶる物語」であろう。そして、それが良いから今でも読み継がれているのだろう。しかし、先のダニエル書のような「信仰心が厚いために炎のなかでも死なない」という話を読んでも全く心が動かされない人は多いだろうから、物語としての価値も普通の人にはないような気がする。つまり、聖書の中身を読んでから良い本だと判断する人は少なく、読む前から「良い本だ」と決まっている人が良い本だといっているだけだろう。
ただし厄介なことに、人が何に価値を感じるのかなど一概に言えないし、理論解析が有効なわけでもない。この話を「神聖なものだ」と想っている人に対しては、議論などどうにもならない。実際その人にのって価値があることは間違いないのだから。結局、こういう本を読む理由は、この本を大切にしていた人たちがいたし、今もいるのだから、そういう人たちについて自分も理解しようかなという動機ぐらいしなかいないような気がする。キリスト教どっぷりだと中世ヨーロッパ世界がとなるのだが、そういう世界を通らないとルネサンスはなかったのかもしれない。ある一つの視点を取り出して、言い悪いを判断しても意味がない。聖書については、世界史と地理とを同時に読み解く気力がないと、普通の人には時間の無駄で終わってしまう。
あ、忘れていた。西洋絵画に「何が描かれているのか」、「どうして描かれているのか」などの動機を知るためにも、知識は必要だろう。そして、そのために普通の人は秦先生の講義を聴くのが一番良かろうと思う。