中世賎民の宇宙
ここ一月ほど阿部謹也さんの本を何冊か読んだ。中世のヨーロッパについてぼくにとっては新しい発見がつづいた。そんなことはこれまでなーんにも勉強してこなかったので、読めば読んだだけ「へぇ」を発する連続だった。研究論文に近い本だと、難しい内容が多くなるせいでちょっと辛くなる。そしてこの本は研究論文的なものが束ねられているので読むのに時間がかかってしまった。そして、なんだかもう中世はいいかな、という気分になった。 本を読むこことで知識は増えるが、それが楽しみなのではない。知識ではなく、新しい視点が獲得が楽しいのだ。たとえば中世ヨーロッパの普通の人についていろいろな知識を得たが、そのなかで次の事実は、中世や過去の人々についていろいろなことが想像できるようになる。それは、中世の人がもっていた人体についての知識である。現代ならば人体の基本的な構造やメカニズムについて概略知っている。理科が大嫌いだった人でも、人体について「未知で恐れ多きもの」という感覚を持ってないだろう。人の骨格や内蔵について絵を見たことがあるだろうし、食べ物を消化してエネルギーを得ることや、呼吸について栄養分についてなど、断片的であったとしても「人体にはメカニズムがある」という考え方に違和感はないはずだ。 なるほど、言われて見ればそうだろう。ぼくはそんな発想をぼくはしたことがなった。ならば、当時の人の考えたこと(伝説なり、風習なり)について、その当時の感情的な根拠や必然性を全く理解できるはずはない。指揮者の概説を聴いてそんなもんかなと思うだけで、それは自分とは関係のないものでしかなった。自分の「当たり前だろう、それ」ということに気づかなければ、過去について知ったとしても意味がない。「当たり前だろう」と思っている知識や前提は、それがない状況での考え方や感じ方を想像することは難しい。だからだろう、大抵のの人は過去の人たちのことを「幼稚な」人たちのこととしか思ってない。 現時点の自分が当然のことだと思っていることを知らないとしたら、自分は何を考え何を感じるのだろうか。この気づき、それにつづく想像なくして過去を学ぶことは不毛である。 この本を読んだ成果は、中世世界を見る視点である。そして、その視点は中世ヨーロッパだけでなく、過去一般にも適用できるし、現在の外国や、自分とは違う感覚の人々の風習理解にも適用できるだろう。世界を想像するときにも見通しが効くようになるかもしれない。 |
