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中世賎民の宇宙

阿部謹也
ちくま学芸文庫
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 ここ一月ほど阿部謹也さんの本を何冊か読んだ。中世のヨーロッパについてぼくにとっては新しい発見がつづいた。そんなことはこれまでなーんにも勉強してこなかったので、読めば読んだだけ「へぇ」を発する連続だった。研究論文に近い本だと、難しい内容が多くなるせいでちょっと辛くなる。そしてこの本は研究論文的なものが束ねられているので読むのに時間がかかってしまった。そして、なんだかもう中世はいいかな、という気分になった。
 阿部謹也さんの著書を学んだなぁという達成感があるのだが、冷静に考えるとたった4冊である。たいした量ではない。しかしそんな量でも読んでいる本の内容は重複してくる。テーマは重複しても解説は入門から論文まで掘り下げ方が違っているから、損した気分にはならない。例えば、賎民という認識が発生してくるメカニズムを扱ったとしても、農民の生活からみるか、経済からみるか、伝承探究からみるか違ったものになる。ただし、ぼくは学問をしたいわけではないので、だんだん飽きてくる。阿部謹也さんの本もそろそろいいかなと思っている。

 本を読むこことで知識は増えるが、それが楽しみなのではない。知識ではなく、新しい視点が獲得が楽しいのだ。たとえば中世ヨーロッパの普通の人についていろいろな知識を得たが、そのなかで次の事実は、中世や過去の人々についていろいろなことが想像できるようになる。それは、中世の人がもっていた人体についての知識である。現代ならば人体の基本的な構造やメカニズムについて概略知っている。理科が大嫌いだった人でも、人体について「未知で恐れ多きもの」という感覚を持ってないだろう。人の骨格や内蔵について絵を見たことがあるだろうし、食べ物を消化してエネルギーを得ることや、呼吸について栄養分についてなど、断片的であったとしても「人体にはメカニズムがある」という考え方に違和感はないはずだ。
 しかし、中世ではどうだろうか。ルネッサンスを迎えるまで、人体について探究されてこなかったし、解剖学的な知識はないか、あったとしても一般には流布していない。ましてや栄養という概念などまったくない。だから人の身体は「不可思議」の対象でしかない。中世の人は、食べ物が胃、小腸、大腸を通過し、最後に排泄されるという事実を知らない。メカニズム的な発想がないのだ。人の存在は「宇宙」と同じくらいの不可思議で未知で、かつ恐れの対象であったのだ。食べ物がなぜ便になるのか。それを見るにつけ、汚さというよりは疑問や恐怖が沸き起こっていたのである。

 なるほど、言われて見ればそうだろう。ぼくはそんな発想をぼくはしたことがなった。ならば、当時の人の考えたこと(伝説なり、風習なり)について、その当時の感情的な根拠や必然性を全く理解できるはずはない。指揮者の概説を聴いてそんなもんかなと思うだけで、それは自分とは関係のないものでしかなった。自分の「当たり前だろう、それ」ということに気づかなければ、過去について知ったとしても意味がない。「当たり前だろう」と思っている知識や前提は、それがない状況での考え方や感じ方を想像することは難しい。だからだろう、大抵のの人は過去の人たちのことを「幼稚な」人たちのこととしか思ってない。

 現時点の自分が当然のことだと思っていることを知らないとしたら、自分は何を考え何を感じるのだろうか。この気づき、それにつづく想像なくして過去を学ぶことは不毛である。
 気づきは知識の問題ではないし、質の問題でもない。気づきの前後においてぼくの持っている知識は変化してない。しかし、知っていることの組み合わせがかわり、その意味するところが新しく増えるのである。

 この本を読んだ成果は、中世世界を見る視点である。そして、その視点は中世ヨーロッパだけでなく、過去一般にも適用できるし、現在の外国や、自分とは違う感覚の人々の風習理解にも適用できるだろう。世界を想像するときにも見通しが効くようになるかもしれない。

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