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グローバルリーダーの条件

大前研一+船川淳志
PHP
お勧め指数 □□■■■ (2)
購入店 bk1

 大前研一さんの対談本なんて初めてな気がする。過去に読んだ大前本を思い出しているが、ちょっと思いあたらない。珍しい、どうしたんだろうか、と思いながら読んでみた。が、結論は残念ならが腹立たしくなってしまった。良い印象を受けない本だった。
 対談相手の船川さんは大前研一フリークで、アメリカに留学してMBAをとって、現地でコンサルタントをやって、それなりに成功したのようである。だからだろう、二人の意見は基本的に一致している。あまりに一致しているので、対談になっていない。
 内容も言ってみれば単純なもので、ふつうの日本人をダメだしである。両者ともに成功した人たちで、一緒になって高見から評論しているわけである。そんなものを普通の人が読んで愉快なわけはない。まぁ、それは極普通の日本人であるぼくがそう思うだけかもしれない。対象読者はこれから未来のある若者に限定されているのかもしれない。
 両者の主張は、といういか、大前研一さんの主張は昔から一貫しているので、とくに新しいことはない。対談相手は、小前研一のような人だから、内容に新しいものがでようはずもない。オリジナリティーという意味からは〇点である。

 この手の本は、結局はリーダー待望論におちる。それ以外の展開をほとんど期待できない。発言者は、すでに成功した人で、自分はリーダーだという自覚を持っている。そういう人たちが、リーダーが何よりも大切だと説く。なんてことはない、要するに俺はなにもよりも大切だと言っているのだ。俺のような人がもっとたくさん出現するべきで、そうでない人は必要ないゴミであると言っている。一般に頭の良い人は、自分こそが大事であると主張することに抵抗がない。そして、成功した人の発言になると、もう誰も止められない。
 しかし、世の中にリーダーなど大勢必要ない。僅かだけいればいい。ピラミッド階層で理解すれば、その頂点がリーダーということになるが、頂点は一つである。全員が全員勉強して、努力して、才能に恵まれたとしてもリーダーは少数になる。人の社会は、そいう形式以外を取らないので、リーダー待望論などを今になって主張する必要などない。人の集団は昔からそうしている。
 実際のところ、リーダーというものを「教育によって」生み出すことができるのであろうか。人の性格が生まれつき決まっているとは思わないが、それでも方法性というものがあるらしいことは自分の経験からもわかる。リーダーというものは、数学者と同じではないかとぼくは考える。原理的にはだれだってリーダになれるかもしれないが、結局は好き好きの問題になってしまう。この本の中で大前研一さんはマッキンゼーで多くの人を採用し教育してきた経験を語っている。そして、どんな人でもたたけばなんとかなるという趣旨の発言をしている。つまり、そうせざるを得ない環境に放り込めば、人間なんとかなる、というのである。数多くの経験を証拠としてあげている。
 こういう例を読むとぼくはため息がでてしまう。そもそもマッキンゼーに入社する人は強烈なセレクションを通過した人のはずで、上澄みのようなものだろう。そんな人たちでも相当しごかないとリーダーにならないのならば、それは、普通の人と関係のないことである。日本人全部を母集団として考えた場合、ほとんど意味をなさない。大前さんを初め、ビジネスで成功したリーダーたちには、普通の人など「人」として見えていないのかもしれない。ぼくをはじめごく普通の人が日本人の圧倒的多数であり、日本人や生活者といった言葉の意味する人々はぼくのような人をさす。ビジネスの成功者からみて「人」といえるような人材でないのである。
 リーダーの存在が大切なのはそうかもしれないが、圧倒的多数の人がどうすればいいかを考えるほうが、実は意味がある。圧倒的多数の人は、一握りにの「リーダー」たちの奴隷ではないのである。こんな簡単なことを、果たしてこの人たちは理解できているのだろうか。大前研一さんは、韓国のある大学のビジョンをひいて賞賛している。その大学のビジョンとは学生達にグローバルカンパニーのアジア支部長のような人として育って欲しいというものである。なるほどそれはそれで明解なゴールかもしれない。しかし、なぜ「部長」なのだろう。それは役職だ。教育のビジョンとして目指すものではない。社会的な取り決めでしかない役ではないか。
 なぜ、リーマンなど目指さなければならないのか。収入が多いからだという、分かりやすい理由かもしれない。しかしそういうもの釣られる人は結局のところ、人が生きるとはなにかということを考えたことがないのだろうと思うのだ。電車の運転が好きな人や文章を書くのが好きな人がいる。こういう人は、それが好きなのであって、なにもリーダーになりたいわけではない。だからといって、リーダーの奴隷になりたいわけでもない。リーダー以外の方法で生きていく人のほうが圧倒的多数である。リーダーになる人は、どんな障害があってリーダを目指すんだから、ほっときゃいいんじゃないか。

 船川さんが日本のだめな例として英語教育について主張している。アジアでもっとも英語ができない国であると。そして、できない理由を挙げるのをやめて、英語を勉強しろいっている。出来ない人は、もうどうでもいい人間だという主張である。
 こういう意見を聴くと、この人はアホだなぁと思う。日本人が英語が出来ない存在し、単純明解なのだ。それは、日本人の圧倒的多数の人は、幸せに生きていくためは英語が必要ないのだ。普通の人が生活するうえで英語は全く必要ない。そのように日本の社会はできている。単純な例を挙げる。日本語での本の出版は「採算がある」のである。日本語を母国語として読める、あるいは聴ける人は1億人以上いる。だから日本語の本は商売として成立する。これは内田樹さんのブログで主張されていたことで、ぼくはこれで目が醒めた気がした。もしも日本の人口が少ないか、日本人の識字率が低いかすると、日本語での出版がビジネスとして成立しなくなる。そうなれば、例えば教科書などは英語なりフランス語なりで読まなければならなくなる。そいういう国の人は、本を読むために英語を使わざるを得ない。映画だって同じだ。そんな自体は祝福すべきことではなく、単に不幸なことなのだ。過去の日本人が積み上げてきたものがあるので、日本語でやっていけている。そして、あまり使わない英語を必須になる状況を作り出し、自分たちの価値を限界まで高めている。自分じゃぁなにも生産しないのに。
 リーダー論を述べる人たちは、すごく大切な人たちような印象を受けるが、実のところいてもいなくてもいい存在である。農家がいないと困る。工場労働者がいなくても困る。店員をする人がいないと困る。しかし、コンサルタントはいなくても実はこまらない。損はするかもしれないけど、なくなっていい。

 リーダー論の本はリーダーになりたい人たちに向けた本である。何かを生産するための手段ではない。リーダーになれる人は限られている。だから、圧倒的多数の人が目指す必要はない。しかし、大抵のリーダー本は、圧倒的多数の人に読ませようとしている。本を読んでリーダーになろうと努力したとしても、慣れる人は限られている。そして、失敗すればなにもない。仮にその目論みが成功して、日本中の人がリーダーになり、みんながサラリーマンになる世界が、どうして求むべき姿のだろうか。

 大前研一さんの著者句は敬意を払って読んできたのだが、それらの本が作り出した結果がこの対談相手の船川さんような人だったのかもしれない。それはコピーではないか。そんな人を大量生産することが、大前研一さんの目標だったのだろうか。
 ずっと昔に読んだことがあるのだが、大前研一さんが若い頃一緒に仕事していた人は、早期定年退職して家具職人になったのではなかったのか。リーダーが重要で、それが重要な仕事であり、その仕事している人が幸せなのだとしたら、なぜその人は家具職人になどなろうとしたのだろうか。
 リーダー論にはもううんざりしてしまった。グローバルやリーダーなどがタイトルにある本は読むむのは止めにしよう。もっとも、大前研一さんの本はこれからも読み続けるつもりだが、もうこんな本はでてこないことを期待する。

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