マンガは哲学する。マンガはストーリが面白いかどうかだけを狙っているのかと思っていたが、確かにマンガの作者は哲学しているんだと知った。へぇ、そうなんだ。言われてみればそうかもしれない。そういう「深読み」もありだろうというのではなく、明らかに哲学的なテーマをマンガという方法で表現している人がいるのだ。
マンガは子供のための娯楽と言われていた。そう言われ続けていた子供もオッサンになっているはずで、いまでも結構読んでいる人は多いだろう。その人たちは結局どうなったのだろうか。少年ジャンプのテーマは「友情・努力・勝利」だそうだが、そればかりを読んでいたらやっぱり単細胞な世界観しかないだろう。普段の生活においても、自分をマンガの主人公のように勘違いすることで楽しくすごすだけの人になるはずだ。それはそれで悪いわけではないのだが、現実と自分の関係を認識するのにマンガしなかいのは哀しい。とはいっても、教養のために本を読んだだけで、未消化な知識を振り回すインテリオッサンよりもいいのだが。
もし、自分ってなんだろうか、に代表される答えのない問題を考えるきっかけになるようなマンガや、社会ってなんだろか、国ってなんだろうかを等身大の問題から考えることを教えてくれるマンガに出会った人は、娯楽小説ばかりよんでいた人よりは「哲学」を持っている可能性は高いだろう。マンガだろうが、小説だろうが、結局自分で考えることをすればいいのだ。そのための素材はなんだっていいような気がする。
この本では、背景に「自分でゆっくりと考えてみる」価値のある問題を提示したマンガがいくつも紹介されている。マンガだけに、見ればわかるような形で表現されているのがよい。哲学の本は意味不明な記述で溢れていて、とても読めたもんじゃなぁい。素材の提示は分かりやすい方が言いではないか。問題はその後なのだから。
そうかんがえると、大人だってマンガをよくよんでみる価値はあるのだろう。変な哲学の本を読むよりもずっとマシだ。ぼくも勉強してみるか、という気持ちで哲学書に何冊か挑戦したが、意味不明さに耐えられなくて読まないで終わった。当時から科学的なことは勉強していたし、日本語はそれなりに使えていたのだが、読んでも意味不明だったのだ。そのわからなさに絶えて読み続けたとしても、結局は人の名前を列挙するだけでで終わっただろう。(今やってもそうかもしれない)。
この本の著者である永井均さんの本は、たまたま読んではまったことがある。意味がよくわかる哲学の本だったので、専門書は無理だったけど、新書や普通の人向けの永井均さんの本を続けて読んだ。哲学を扱った本でも「意味明瞭」なものがあるんだと知って、結構うれしかったのだ。ただし、ぼくが興味を持って読みはじめたときに都合よく新刊がでるわけもなく、他の人の哲学本を読めるとも思えないので、それっきりになってしまった。
永井均さんの本を文庫コーナーでたまたま見かけた。テーマはマンガとある。いくら普通の人にもわかることが書ける人だからといって、なにもマンガで哲学書をつくらなくてもいいではないか。ちょっと嫌な気分もしたのだが、まぁ買ってみた。ぼくの読みが浅はかだった。面白いぞ、これ。
哲学書は言葉で表現する。何を表現するにしても言葉という制約がある。単語の繋がりで表現するとおそろしく複雑になるものがあり、表現している人がある種の諦めを感じてしまう。いわゆる哲学書の意味不明さは、そういう制約の当然の結果なのだろう。言葉がだめならば、絵を使えばいい。絵ならば表現できる。ストーリーならば論理もつくれる。だからマンガを使うのである。
この本で紹介されていた藤子F不二雄のマンガに興味を持ったので、早速買って読んでみた。1970年という時代にシュールなマンガを描いているである。スピリッツだから読者層は大人なのだろう。ということは、当時から大人がマンガを読んでいたということだ。学生運動をしていた人の世代のマンガだからか、ずいぶんと哲学的なものを読んでいたのだアと関心する。まぁ、それは言い過ぎかもしれないが。
要するに内容が理解できればいいのならば、そしてそれが大切なことならば、マンガでもいいじゃんということ。漢字に音読みと訓読みがあるという日本語表記のシステムはマンガに向いているのだということを養老孟司さんの本で読んだけど、マンガというのは哲学まで語れる。そして、それをやろうとした人はたくさんいたし、今もいるのだろう。なるほど日本のマンガが世界で売れるわけだ。