やさしさとは何か。哲学や宗教の面倒な用語なしで解説すると誰にでも簡単に理解できる。なんだ、そういうことか。考えて見れば当たり前ではないか。要するに、自分の望むことをしてくれる人をやさしい人と読んでいるだけなのか。自分が正しかろうが悪かろうか、多数派意見だろうが少数意見だろうが、自分の望むような行動をとってくれることを「やさしさ」と呼ぶのだ。実に簡単なことである。
やさしさの意味がわかると、やさしさは本当に人にとってプラスのことなのかという問いが頭をもたげる。というのは、人のエゴを許容する環境がやさしさなのだと言えるから。たわいもない要求ならば問題ないのかもしれないが、エゴは必ず成長し、本人にも制御できない欲望へと成長する。やさしさに慣れた人はいずれやさしさが感じられない状況に飲み込まれる。「わがまま」のクセが生きるのに障害となるくらいまで成長してしまったら、もはや本人に為す術がないだろう。つまり、やさしさになびいた人の末路は、破滅になっているわけである。となれば、やさしさを推奨する行為は親切なことなのだろうかと疑問になる。
スマナサーラさんの本は、漢字だけで構成される仏教概念をもちださないで仏教の神髄を説明してくれる。だから、ごく普通の人にも仏教の知恵の断片の良さを理解できる。スマナサーラさんの本を読む限り、仏教は「宗教」ではなく、「哲学」や「思想」というカテゴリーの活動である。なぜならば、そこには「教義を信じる」という行為がないから。信じるものが救われる、という態度がまったくない。仏教とは、真実とか正義とかに無縁の、いかに気分よく生きていくかという生き方論なのだ。
この本は大変読みやすい文庫本である。小学生高学年にすら、すらすらと理解をもとめることができるだろう。もっとも、書かれた言葉を理解できたとしても、スマナサーラさんが意図したことを理解できるかとなるとわからない。というのは、理解するためには苦労を体験していないとダメだろうし、言われたことを「自分でできる」状態にないとダメだろうから。やさしさとは何かを理解するには、すくなくともこの本で定義されているやさしさを求めたことがあり、それを自覚したことがあり、それにひどい目にあった体験がないと「なぜそんなことを考えるのか」理解されないだろうということだ。それに、やさしさというものの怖さが理解でき、それを必要としないような考え方を望むようになり、その実践がこの本で示されたとしても、だからといってそれが自分で実践できるわけではないだろう。理解と実践とは次元が異なるから。どんなによい提言であっても、やって見ないことにはどうにもならない。
スマナサーラさんの本はどれもわかりやすい。読んだ時はもやもやした気分の原因を掴むことができるのでさっぱりする。ある種のシャワーを浴びたようで気分がよい。気分が塞いだときには是非読むと良い本である。しかし、だからといって、読んで理解しただけではスマナサーラさんの言うような考え方、感じ方はできないのである。何冊読んでもそうである。
イライラしたり、腹を立てたり、疑心暗鬼になったするのは非常に辛いことである。そんな状態からは一刻も早く逃げ出したい。そのような気分はすべて感情でしかない。嫌な気分は物理的実在ではないのだから、自分の気持ち一つで完全消去できることも知っている。げんに、少し冷静になれれば「そんなことは考えても感じても無駄なことである」という発想は浮かんでくる。ならば、あとは嫌や感情が発生するまえにエゴをいかににコントロールするかが勝負である。
優しさは誰にでも求められている。社会においてそれを耳にすることは多い。しかし、他人の思った通りに自分が行動することがなぜ推奨されるのであろうか。困っている人がいたら、こちらが困らない範囲で助けてあげる。自分以外の人もうまくいくように願ってあげる。それだけでいいではないか。それはこの本の結論であると考える。そして、それは数あるスマナサーラさんの著書は同じ結論になっている。他の多くのことがらを扱った本の結論とこのやさしさを扱った本の結論が同じなのだ。ならば、なるほどスマナサーラさんの説く考え方を身に付けることは、生きていく知恵としていきなり自分を助けてくれるのだろうなとうなずける。