「常識」の日本史
また出版されている。書店で見かけたら必ず買う井沢元彦さんの著作であるが、今回の内容もなんだか見たことありそう。徳間ではなくPHP。毎度毎度のお話なのだが、単行本毎に微妙に話題がズレている。それを楽しむことにすればいいやと思って買った。 今回も、なぜ奈良の大仏が捨てられたのか、怨霊信仰、正史としての文書の内容の信頼性といったものを扱っている。ただし、キーワードをたとえ話している。「社史が信用できるか」と言われれば、そりゃないわな。同じ人がやることなのだから、同じように正史を読むべきだろう。そういう仕事全うな指摘である。いや、「逆説の日本史」以外の本は実は一般の人を対象としていねがら、学会へ向けたメッセージになっている。だったら直接言えばいいのにと言いたいところが、直接言ってだめだからこうして一般の人を巻き込み、その圧力をつかってメッセージを放っている。在野の研究者はそういう方法をとる。 一般の人がこの本を読めば、ナルホドと思うはずである。日本史研究者と何の関係もない人であれば、学会というのはむしろおかしなところであるとすら感じる。権威というものの馬鹿馬鹿しさを知ってしまう。その意味で、こ本が一般の人に指示さればされるほど、学会関係者は少し足元をみてもいいと思う。しかし、まぁ権威というものは一般の人をバカだと思っているので、なにも変わらないだろう。それはそれで仕方ない。むしろ、学会とは関係ないところにまともな考察が残っていくことが日本語の本の蓄積としては有益だ。その国のレベルを知るのに学会の論文などはどうでもよく、どのくらいまともな本が世間で通用しているのかの方が大切であろうから。 それにしても、学者というのは本当に学問の徒なのだろうかと疑ってしまう。身の回りにも教授と呼ばれる人がたくさんいるが、彼らの発言よりも行動を観察していると、彼らの主張したいことは「おれは偉い」だけであるのと気づく。ほぼ全部そうだろう。なんでこんなやつらばかりなのだろうか。その理由は、彼らの幼少時代からの経過にあると推測する。子供の頃から「頭がいいね」と言われて育ってきた人々なので、「おれは頭がいい」ということしか「頭にない」のであり、それを主張することが彼らの生きる道なのだろう。えらく人間臭い話である。井沢元彦さんもおそらくはそういうことに気がついているだろうな、と思うのだが。 |
