環境を知るとはどういうことか
正直、この対談での中心となる岸という人の発言に本能的に嫌なものを感じた。発言内容やこれまで行動してきた事柄は立派なものだろうし、それはこの対談者全員がそう評価しているから実際そうなんだろう。しかし、この人の考えの背後にあるのは、普通の人を心底見下した目のような気がする。発言を読むほどにそういうところを強く感じる。 昭和四十年代に都内で生まれたごく普通の子供が育っていく環境を想像してみる。昭和十年代に鎌倉に生まれた人や昭和二十年代に鶴見川沿いに育った人と同じ感覚を持っているわけがない。少年期に育っていく環境はその人の選択ではない。少なくとも多く子供は育つ環境を選べない。その選べない環境において感覚が最適化する。成長するときに何の感覚を大事にするのかは、育った環境に依存する。その結果として普通の人ができあがる。つまり、自分の感覚を育てることは、育つ環境と同じで、選択できないのである。 環境によって人が違ってくるのは当然である。その違いはその人の責任ではない。だから、その人を攻めても意味がない。逆に、自然がある場所で育った人もその人の責任ではない。たまたまそうだったというだけだ。お金持ちや貴族に生まれるか貧乏な人に生まれるかは、その人の選択しではないのと同じだ。生まれ育った場所がその人なりに郷愁を持つはずだし、それによって関心・無関心が決まる。そういうものである。 しかし、この本の著者たちはそうは思っていない。都市に生まれ育った多くの人を宇宙人だとし、日本はこういう人に一票を与えるべきではないと考えているのである。自然の中で育った人が日本を司ればいい。口に出しては言わないのだが、この本での議論においては、どうにもならないくらいその思いが溢れでてしまっている。 彼らの話していることを聞くに、要するに日本を昔の姿に戻すのだということだろう。そんなのは簡単である。人口を1/3くらいにしてしまえばいい。人が減れば開発しようにも国力がない。江戸期の人口に戻せばいい。人の活動も戻せばいい。ただし、その場合、中国やアメリカの一部になるだけだろうけど。 現実を直視する。すると理想と現実のとのギャップを見る事ができる。その間を埋める方法はいろいろ考えられようが、エネルギー的、コスト的、技術的という制約からできるできないが決まってくる。あるべき姿と現状とのギャップを合法的な方法で繋ごうとすれば解なしなることも多い。じゃぁといって強引に線を引こうとすればやろうとした人が抹殺されることになるかもしれない。要するに、できないこともあるのだが。 普通に暮らしていると自然の中で生きていない。だから、自然の知識は獲得できない。当然知らないことばかりになる。植物のこと、河のこと、昆虫のこと、土のこと、海のこと。知らないことばかりである。そういう知識がないとしても、それは当然のことである。今の日本で生きてくときにそういうものは必要ないからである。それを「ばか」と言うのは、まったく的外れというものだ。 長い目で考えて行動する。実に口当たりの言い言葉だが、これは社会に変化がない状況において効果を発揮する考え方である。たとえ独裁であっても、その独裁がいつまでもつかわからなければ結局は成立しない。長い目でみても未来が読める。未来の着地点に確信がもてる。それが可能な時期、地域でこそ可能だろう。 しかし、変化が激しく未来が読めないのならば、その話は単なるペテンでしかない。日々の生活ですら一年で大きく変わっていくとしたら、長い目でみて何かをするなどという言葉に説得力はない。 |












