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なぜ、日本は誰でも総理になれるのか

井沢元彦
祥伝社
お勧め指数 □□□□■ (4)
購入店 八重洲ブックセンター

 そうそう、タイトルを読んで思わず手がてでてしまった。たまたま書店で井沢元彦さんのコーナーを眺めていたが、そのときまでは歴史関係の本を買うつもりはなかったのだけど。ぱらぱらとページをめくり、書かれたのは小渕総理から森総理へと変わった時代のもので、主なテーマは「なんでまたこんな人が総理になれるのだろう」という素朴な疑問だだった。ぼくもその疑問を常々もっていたので購入した。

 総理大臣というよりも、ニュースに登場する政治家の発言におかしなものが多い。そういうものだけをセレクトして放送しているということもあるが、中には小学生だっておかしいのではないのかという感想をもつだろうものもけっこうある。おそらく普通のニュースを日常みている普通の大人で政治家を「賢い」とか「立派」だとか考えているひとはいないだろう。

 政治家がおかしな発言をする。すぐにマスコミが問題にする。すったもんだの揚げ句、大臣が更迭される。この流れは少なくともぼくが子供の頃から変わっていない。もちろんマスコミ側の扱いはまともなものとは言えないし、煽りに満ちていることは承知している。それにしたって人々を言葉で動かすのが政治家たちなのに言葉が下手くそなのが不思議でしょうがなかった。言葉以外にこれといって知識なり技術なりがあるわけもでないのだから、いったい彼らはなぜ代表なんだろうと思っていたし、いまでも思っている。現代の七不思議でもある。

 この本での解答は至極簡単なものである。立派な人がリーダーにならないようになっているのが日本だというのだ。この考え方は井沢元彦さんの別の本で読んだことがある。だから復習ような感じで読めてしまった。

 具体例として聖徳太子の憲法十七条の一条と十七条についてを引いている。日本で一番大切にされているのは、みなで話し合うという考えである、というものである。それは古代の日本においても「そういうものだ」と思われていたというのである。初めて読んだときは「へぇ」と声にだしてしまうくらい納得した。当事者での合意が全てである、という決め方は「まぁ、正しいだろう」と自然に感じるからだ。民主主義だろうがなんだろうが、日本では「角を立てないように、みんなで話しあって」ということがどんな状況でもまず最初にでてくるのは確かなこと。この考えを補助線として政治のごたごた眺めるもめている様子がバカみたいにあっさりと理解できてしまう。

 話し合いが人々の納得を引き出す最初の一歩である。そう納得してから最近のニュースをみると、自分の見方が変わってしまっていることに気づいた。新閣僚の人事報道で新総理の動向が報じられており、そこには常に「話し合い」が強調されている。もちろん話し合いでいいのは確かだ(なるほど、ぼくも日本人だ)が、それでも「こういう政治がやりたい」と主張してきたのだから、粛々と新総理の考えで勧めればいいとも思う。ところが部外者であるマスコミすらそう思っていないようだ。

 数合わせの少数政党の人がしゃしゃり出てきて面倒なことになっている。自民党時代でも「自民党の中で」やっていたことだから、とくに珍しいものではない。話し合い話し合い。この状況からして、政治がこれまでとは変わったものになるとは思えない。やり方は常に同じだから。役者と演出がちょっと変わった程度である。ひょっとしたら、いかにして「自民党が出現したのか」を民主党が変貌していく様で理解できるかもしれない。そう思ってしまうくらい。

 ぼく個人の意見だけど、現実と直に接するところに話し合いは要らないと思っている。現実は「人」ではないからだ。現実に直に接するのは科学であり工学である。芸術は結局のところ人が評価を下すから、それには含まれない。理解するもの、操作するものが人間以外のものやことだったら、話し合いなんて要らない。むしろ極力排除しないとおかしなことになる。「意見の不一致」から生じる「怨恨」は人にしか生じない。科学と工学には無関係。もっといえば、いわゆる理系に話し合いなど必要ない。現実に働き掛ければ答えが一発でるから。理系のいいところは何か問われてたら、迷わずそれを挙げる。

 では、話し合いが悪いことなのか。それ自体の価値は判断できない。日本はそういう仕組みにある、ということが理解できればよいはずで、あとはその仕組みの中でどう立ち回るかによって幸不幸が決まる。話し合い主義(つまり、角を立てない主義)は日本で組織をつくるときの方法所与の事実である。大事なことはそれを西洋流に変えることではなく、それを完全なまでに理解することである。万有引力なんて嫌いだといっても、f=maという法則は現にある。同じように日本の物事の原理として。日本にいる間は、そのルールの中で考えることである。

 なぜそんなルールを日本は選択してしまったのか。そんなことはわからない。数千年前からのものなのかもしれない。そんな昔の人の工夫が、工夫として日本に住む人たちの間に生き残っているのである。生き延びるには、それを理解し活用するよりない。