ShallWeダンス?
最近ブログで読んだ書評でこの作品に興味をもち、DVDをレンタルで見てからこの小説を読んだ。映画はロードショーのときだからもう10年以上前のこと。所々記憶しているが、完全に忘れいているところも結構あった。ラストは感動で、涙。 小説の進行も映画通りなので、読んでいるのに頭の中では映画がかかっているという実に便利な体験をした。文を読んだのに映像で理解してるのが面白いのだ。小説を読みまくった人、文学青年、あるいは小説家はこれくらいのことが頭で起きているのかもしれない。だったら実にうらやましい。なぜなら、本を読む楽しさがぼくの千倍以上違うからから。ポータブルDVDのようなものが必要ないだろう。自分の頭を鍛えるれられば、なんと便利な楽しみを持てることか。 小説版と映画とで違うところはラストシーンのみ。どうしてちがうのだろうか。後書きに理由がある。 知り合いのプロデューサーのH・T氏に、試写を観みた後、「最後はパーティに行かないと思ったんだけど」と言われたのである。「行かないでどうすると思われたんですか」と聞くと、僕より少しだけ人生の先輩であるH氏は「一人で公園で踊ると思ったんだよね」と答え、少し間を空けてから「この歳になるとさ、そんな気がするんだ」と小さく寂しそうな笑みを浮かべた。 小説ではそれを試みたということである。最初に映画を見たときぼくは20代だったので、役所広司が演じた杉山さんの感情を体感するところまでは不可能だった。ところが今の連例ならば役所広司が演じた役の年齢に近い。だからだろう、この作品が言わんとしていることを肌で感じることができるのだ。もっともぼくは出世もマイホームも子供も持っていないので杉山さんとはあまりにも境遇が違うのだけど。それでもこの年齢の人ならば感じる通奏低音のような感情を理解できる。映画でも小説でもそうだが、自分の年齢が変わるたびに同じ作品を観賞するのは面白い。物語の進行を知っていたとしても、そのシーンの味わいは全く別のものになるから。年代が違うと同じ作品でも別の感覚で観賞できるということはいろんなところで耳にするが、なるほど本当にそうだなと納得できた。知識が知恵へ転換した瞬間である。 問題のシーンについて。小説の最後の2ページ。小説の方が意外性があり、劇的。こっちのほうが感動があるのではと感じた。物語ならではだし、ラストシーンらしい。深いものがあるように思えたから。それに映画よりもこちらの方が全体として貫かれたテーマがはっきりする。杉山さんの行動は小説の最後の方が「正しい」と思うから。 じゃぁ映画もそうしたらいいかと言えば、それは違う。なぜか。それは小説では文章によって杉山さんが考えた思索が読めるが、映画は普通の人はわからないから。読者は杉山さんの心の中を文字で読める。映画ではそれができない。人の心の中を憶測するのは映画の楽しみのうちなのだろうけど、大抵の人は理解できないもの。適当に勘違いするのが関の山だ。思索を映像と音楽で表現するのは難しい。思索をナレーションとして入れると「説明」臭い。ある種の嫌みがでるかもしれない。なるほどならば映画は今の映画の終わりでいい。 最後の2つの結末を知り、その両方の良さを理解し、両方好きになったところで、ふっと気がついた。これがパラレルワールドというものなのか。ああすれば良かった、と過去を思い返すときにパラレルワールドという言葉を思い浮かべる。大抵の後悔は、現在とは違う状況を思い浮かべ、そちらの方が今よりも「いい」と感じるからだろう。ところがその違いについては判断できないはず。なぜなら両方を体験することができないから。比べようがないじゃない。比べられない以上、「もしかしたら」というパラレルワールドの方が「いい」ような気がするのは当然のこと。それを後悔と呼ぶのである。 この小説を読んで思うだが、仮に2つの選択しがあったとしたら、実は両方とも「あり」であり、つまりどっちを選らんでも同じような結果になっているというのが本当のところではないのだろうか。つまり、選択によって未来の違いというのは、実はたいしたことがないのではないか。はたいしたことがなく、どちらもそれなりに「よい」ということはないのか。パラレルワールド自体によい、悪いの違いなんてないんじゃないか。 おそらくだが、選択の結果というのは、選択する前の履歴によってほぼ決まって、選択によって結果が天と地に別れるというのは現実否定をしたい心理から来ているだけで、実のところ「勘違い」なんじゃないか。因果を強調することになるけど、選択の違いなんてじつはなくて、それ以前に何やったのかによって、選択の先が決まるだけなんじゃないか。 なんだか実に不思議な気分のままこの本を読み終えた。映画を見たときの感想は、この映画は「ローマの休日」のような永遠性まではもう一歩だ、というものだった。その理由は「舞さんと踊りたい」という杉山さんの思いが達成されたからだろう。小説にあるように、その思いが達成されないで遠くに行ってしまうという哀しさと向き合うところで終わると、「ローマの休日」にある永遠性を獲得できているのではないかと感じる。なるほど、ならばぼくは、小説版の方が歴史に残ってもらいたい。 |
